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3 穏やかな寝息が耳に届く。発信源である幼子の目じりに残っている雫をキリルが指でぬぐった。その様子をネイは黙って見つめている。 泣いてばかりでその場から動こうとしないシースを連れて帰らなければと思い至ったのはネイだった。動くのを嫌がって暴れたシースを抱え、押さえつけて無理やり帰ってきたのがさっきのことだ。 帰ってきてからもシースは泣き続けた。一度は心配した一階の面々が様子を見に来たほどだ。 泣いている中に言葉がまざるものの、はっきりと聞き取れたものはほとんどない。確かなのは、"おねえちゃん"を繰り返していることぐらいだった。 飛び出した理由を尋ねようとしても要領の得ない会話が繰り広げられる。挙句、泣いて、暴れて、逃げようとして。ネイが力ずくで押さえつけなければまた外に出ていただろう。 大騒ぎの末に、ようやく眠りに着いたのだ。 二階で休息を取っていたルメリアは既に一階へ降りている。 「ここを頼むな」 キリルに小声で言って、ネイは一階に足を向けた。 階段から顔を出すとウェストと目が合う。ウェストは相変わらずのん気に笑った。 「すごい声だったなぁ。いったいどした?」 心配というより感心しているような声に腹が立つ。影との戦闘ではあんなにしっかりしていたのに、どうしてこうも無神経なのか。自分なら、ゲンテリアスならきっと──。 声のかけ方を思い浮かべ、あれ? と心の中で首を傾ぐ。 いつもなら真っ先に声をかけてくるゲンテリアスが声をかけてこない。その疑問は首をめぐらせればすぐに解けた。 ゲンテリアスはこちらに目もくれず、手に持った本を凝視している。そういえば先ほどシースをつれて帰ってきたときも反応がなかった。相当のめりこんでいるらしい。 やれやれ、とうっすら唇に笑みを乗せる。苛立ちが収まって、穏やかにネイは言った。 「お姉ちゃんがいた、だと」 「はぁ?」 ウェストが怪訝な声を出す。ルメリアがまぁと口に手を当てた。 「家の外に出たのも、お姉ちゃんがいたからだそうだ」 要領の得ない会話の中で、ようやく掴んだ中身。泣き叫ぶ彼から引きずり出した“理由”は“お姉ちゃんがいたから”ということだった。いなくなってしまった彼女がいたからだと。 「いるわけないのにな」 ネイがうつむく。彼はシースが悲しみのあまり幻覚を見たと思っているのだろう。 彼の考えを一掃するかのごとく、ウェストが口を開いた。 「そうとも限らないだろ。何もラフェナが影に飲まれたって決まったわけじゃないんだしなぁ」 「影に向かって手を伸ばしたんだぞ。影がラフェナだというのか」 鋭く返されて、ウェストは言葉に詰まる。確かに影=ラフェナという図式は乱暴すぎる。 「……影が、ラフェナちゃんの居るところに通じているのかも」 か細い声が発せられた。面を着き合わせていたネイとウェストは声の主─ルメリアを見る。 いつもおとなしい彼女は視線を彷徨わせ、手を落ち着きなく動かした。体が小刻みに震えている。まるで、自分のいたった考えを恐れているかのように。 「だとしたら……わたしたちは影に呑まれたほうが、いいのかもしれない。シースはラフェナに合えるし、わたしたちだって他の人に」 「それはありえない」 ネイに一刀両断され、ルメリアは彼をすがるような瞳で見た。 「でも」 「ありえないんだ。そう思わなれば……。確かなものなんて俺達にはない。影に呑まれるのが正しいって言うなら、あのとき感じた悪寒は何だ」 自分自身にも言い聞かせるようにネイが言葉をかみ締める。 今思い出しても体の震えが止まらなくなる。 影達の咆哮はネイの脳を揺さぶり、感覚を共有させた。 結果影の苦しみが伝わり、聖水に焼かれる熱さを味わった。 “あつい。熱い。熱い熱い熱い──!!” あれに呑まれるなんて。 「俺達の感覚を信じなくて、何を信じるんだ!」 皆口を閉ざした。 影達の恐怖はわかっている。溶けていく恐ろしさも。けれど、もしとも考えてしまうのだ。もし、こんな世界から出られるのなら。 何を信じれば良いのか、わからない。 「誰か来て!!」 沈黙を悲鳴が引き裂いた。二階からだ。本を読んでいたゲンテリアスも含めた全員が階段を見る。 咄嗟に階段の近くにいたネイが階段を駆け上り、その後にウェストが続いた。 階段を上りきって、ネイは思わず足を止める。 予想はしていた。 けれど、これは。 二階を埋め尽くす、影。床のほとんどが覆われて、影の一固体一固体の境目もわからず、巨大な影がうごめいた。 その影から飛び出した手。 キリルの手、だった。 その手を認識し、ネイは止めていた足を動かした。持ったままだった瓶の中身をぶちまける。影の咆哮が響き、脳が揺さぶられた。精神が引きずられるのを必死に押さえる。 追いかけてきたウェストを見て、叫んだ。 「家の中は安全じゃなかったのかよ!」 「そうだと思ってたんだ!!!」 ウェストが狼狽しながら、臆することなくキリルに覆いかぶさる影を鷲づかみする。キリルから影を引き剥がした。 助け出されたキリルは床に転がった。全身に何かが這ったような痣がある。痛みをこらえ、吐息と共に言葉を吐いた。 ネイが助け起こすと彼女は唇を動かす。 「しーす、が」 「くっ」 何かをこらえるような声をウェストが漏らした。ネイが見ると、ウェストの右手を影が呑みこもうとしている。 「ウェスト!」 ネイは最後に残っていた瓶をウェストに投げた。ウェストが無事なほうの手で瓶を受け止めるのを見て、ネイは部屋を見回す。 シースを寝かせていた寝台は影で遮られて見えない。 影の咆哮が響き、ウェストが後退した。右手を左手で押さえている。濃い痣が刻まれていた。 一つの影の咆哮が合図となって、部屋中の影がざわりと動く。 「とりあえず、一階行くぞ」 苦痛に顔を歪ませながら、ウェストはキリルを抱き上げた。 「シースは!」 「このままじゃおれ達がやられる!」 ウェストの額に玉の汗が浮かんでいる。ネイは手を握りこんだ。ウェストはネイの返答を待たず、下へ向う。キリルを壁にぶつけないように最新の注意を払って。持っていた聖水を使い切ったネイも階段を下りた。 一階に着いたウェストは膝を着く。キリルを床に横たわらせ、右手を押さえた。駆け寄ってきたゲンテリアスとルメリアに笑みをみせる。 一方ネイはまっすぐに机へ進み、聖水を掴んだ。踵を返しもう一度上へ──甲高い音が響く。硝子がぶつかり合い、全ての窓から影が部屋の中に入ってきた。 囲まれた。 だが逃げ場の無い現状で、この量の影。聖水をかけたとしても助かる可能性は低い。 影がゆるりと手を伸ばす。 「皆さん、目をつぶってください!!」 そんな中での指示に、ネイは言われるまま目をつぶった。つぶっていてもわかるほどの光が目を焼く。瞼の裏が赤い。 光が収まって、ゆるゆるとネイは瞼を上げた。 部屋を覆いつくしていた影が消えている。部屋にいた影だけではない。外に大勢いたであろう影も消えていた。 辺りを見回すと、本を持って立っているゲンテリアスが目に入る。指先に灯っていた光が薄れていく。ゲンテリアスは肩で息をして、片手を額に当てた。彼の痩身が傾ぐ。 「ゲンテリアスっ」 思わず駆け寄れば、ゲンテリアスに制された。 ルメリアはキリルを心配そうに見つめている。大分顔色のよくなったキリルが立ち上がった。 聖水をカバンから出し、よろけながらも二階へ上がっていくのが視界の片端に見える。 それを見送り、ゲンテリアスにもう一度視線をやった。彼は口角を上げる。 「疲れただけです」 確かに疲れただけなのかもしれない。だが、ただ疲れただけではないことはなんとなくわかる。一体さっきの光はなんだったのだろうか。 ふと、目線を落とすと本があった。それは先ほどまでゲンテリアスが読んでいたもので、またネイとルメリアが見つけてきた本でもあった。心がざわめく。 「大変だよ!」 二階へ駆け上がっていったキリルが音をたてて階段を下りてきた。よほど焦ったのか息を切らしている。 「影もいないけど、シースもいないんだ」 「そんな……」 ルメリアが最悪の事態を想定したのか青ざめた。ネイは舌打ちし、ゲンテリアスは顔をしかめる。 「探さなければ」 「そうも言ってられなさそうだぞ」 外に出ていたウェストが左腕を持ち上げた。皆が一斉に外へ出る。 遠くに黒い物体が見えた。影だ。 ルメリアとキリルが息を呑む。ゲンテリアスが本を握り締めた。 「聖水持て」 短くネイが言う。ウェストが家の中に入り、カバンを肩にかけた。 「町を離れる」 「シースは!」 言い捨てたネイに、キリルが詰め寄る。 「諦める」 「そんな……」 ルメリアが瞳を潤ませた。キリルが怒りで顔を赤くする。反論しようと口を開いて、だがネイの表情に言葉を失くした。ネイは苦虫を噛んだような顔をしていた。 「諦めなければ、俺達までやられるんだ! まさかこの期に及んで影に呑まれたほうがいい、なんて言う奴はいないな」 彼自身も納得していないのがひしひしと伝わってくる。ネイは確認するように皆を順々に見回した。全員が首肯する。しぶしぶと、しっかりと、緩慢に、諦めをこめて。 「ゲンテリアス、援護頼めるか?」 まだ顔色の悪いゲンテリアスの様子を伺いつつ、尋ねた。具合が悪いとわかっていても、ここで彼が踏ん張ってくれなければ全員が影にやられることになる。 ゲンテリアスはしっかりと頷いた。 「よっし。道案内はオレに任せろ」 胸を張ったウェストに、頼む、とネイ。 んじゃー出発! とウェストが宣言し、走り出す。ネイは泣いているルメリアを先に行かせ、二階に目線をやっていたキリルも送り出し、ゲンテリアスをかばいながら一緒に外へ出た。 走っていく皆の背を最後尾から見ながら、心の痛みに蓋をする。泣きながら、騒ぎながら、共に走っているはずだった幼子はいない。 これで、二人。 皆が走り出すと遥か後方にいた影の速度が増した。ゲンテリアスが走りながら本をめくり、唇に聞きなれぬ音をのせる。 先ほどよりも穏やかな光が影達の足を止めた。あまり威力がないのか影達は消えない。だが威力がないらしいこれでもゲンテリアスがよろめいた。 咄嗟に軽く支えて、あまり連発するのは危険だと思う。 ふと前に意識を向ければ町を出る直前でウェスト達が立ち止まっていた。咆哮の残滓が薄れていく。前方にいた影はウェストが聖水で退けていた。何故、今頃になって止まるのか。 近づいていくに連れ、それは明らかになった。巨大な影が彼らの前に立ちふさがっている。影はふくらみ、頭上から全てを呑みこもうとしていた。 足取りの危うかったゲンテリアスが走る速度を上げた。ネイもそれを追う。 音は紡ぎ出され朗々と響く。閃光が走り影を貫いた。影は崩れて地に落ちる。 「走れ!」 ネイの叫びに後押しされ、ウェスト達が町を出た。ネイはこけかけたルメリアの腕を掴んで助ける。 眩暈が酷かった。ゲンテリアスは本を再度握る。落としたら一巻の終わりだ。背後から影の気配は迫っている。気を抜けばもつれる足をどうにか動かし、町の入り口で振り返った。視界が歪み、手の平から本の感覚が抜け落ちる。 影は近い。今本を落としたら、やられるというのに。 その時、横から伸びた手が本を掴んで彼の手の平の中に戻した。はっとして見るとネイが隣に立ち、支えてくれている。 目を合わせ、頷きあった。 吐き気がする。眩暈もする。足を止めた今では立っているのも危うく、大量の汗が額から噴出している。それでも、疲れを感じさせぬ声でゲンテリアスは影達に光をぶつけた。 +++ 町は大分遠くにある。命からがら逃げ出した皆は安全と思われる荒野の中心でへたり込んだ。 隠れる場所の無い荒野。転がっているものがほとんどだが、ゲンテリアスは近くにあった岩に身を預け、ネイに至っては立ったまま辺りを警戒している。 何せ、町を出たところでまた影に襲われたのだ。幸い少数だったので聖水のみで退けることが出来たが。 「町どころか、どこもかしもこ安全じゃないじゃねぇか。町出たところで影と遭遇するなんて、聞いてねぇぞ」 ウェストが白い空を見上げながらぼやく。 「お前らが影に会わずに済んでたのは、運が良かったってことだな」 「そうかもな」 にやりと笑ったウェストにネイがため息を吐いた。 ウェストは平気そうだ。止まってすぐは切らしていた息も既に整っている。それはキリルとルメリアも同じで、体力的には二人とも大丈夫そうだった。キリルの肌に残った痣は痛々しかったものの。 問題なのは……とネイはゲンテリアスを見る。 「ところで、さっきのは何だ? ゲンテリアス」 ウェストが何も考えずにゲンテリアスに尋ねた。尋ねられた当人は瞑っていた目をうっすらあける。青白い顔に浅く細かい呼吸。本を握る手が震えていて、動きも緩慢だ。明らかに具合がわるそうである。 「魔法、と言うものですよ。昔、人間が神より授けられていた力。今はもう、ほとんど失われてしまった力です」 具合が悪いだろうに、律儀にもゲンテリアスは答えた。ネイはもう少し察しろとウェストを睨んでみるが、彼に通じた様子は無い。 ゲンテリアスは僅かに本を持ち上げる。 「この本は神語で魔法の呪文について書かれていたんです」 「ふぅん」 ウェストは感心したようにしきりに頷いて、あ、と声を出した。 「一個思い出した。確かこの近くに神の遺跡があるんだよ。その遺跡に行って、その魔法って奴を手に入れられれば、消えたやつらを何とかできるかもな。もっとも、そこに魔法があったかどうかまでは思い出せねぇけど」 珍しくいいことを言ったと思えば、無責任なことで締めくくられる。ゲンテリアスは浅く息を吐き出して、目を伏せた。今後のことまで気が回らないのだろう。 「この際、わらをも掴みたい気分だ。行ってみよう」 町に手がかりがあるとは思えない。ならば、新しい場所へ行かなければならないだろう。ほかに手がかりもなく、行ってみるかと思ったのだが。 「おう」 ネイの決定に返事を返したのはウェストだけだった。 他の皆は反対したわけではないだろう。ただ、それどころではなかっただけで。 この先のことを思って、ネイはため息を吐く。吐きながらも、辺りをうかがうことは忘れなかった。 |