3.なあに?

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 避難した家は二階建てで、シースとキリルとルメリアは階段を上がって二階へ行くことにした。二階には寝台もある。
 目を真っ赤にしたシースを支えるようにしてキリル、その二人を先導してルメリアが階段を上がる。
 ウェストとゲンテリアスは椅子に座って現状について語らっている。初めこそネイも聞き耳を立てていたがネイの理解できない理論の話に入ってきたので聞くのは諦めた。二人より少し離れたところの壁に寄りかかって、拾ってきた本をめくる。
 やはり理解できない文字の羅列。表紙だけがなんて書いてあるのかわかった。ためしにこの家の本をめくってみると普通に読めるのだから、そもそもの言語が違うのだろう。
「ネイ」
 ゲンテリアスに声をかけられ、ネイは本から視線を上げた。ゲンテリアスはウェストと向き合った姿のまま手招きをする。ウェストが明るく言った。
「話に参加してくれや。お前の力が必要なんだ!」
 大げさに言った彼にネイは一つ息を吐いて本を閉じる。そのまま本を持って移動し、ゲンテリアス、ウェスト共に対角線上にある椅子に腰を下ろした。本は机の端に置く。
「失われた記憶について話していたんです」
「お前らみんな記憶喪失だなんてびっくりしたぞ。まぁおれも記憶喪失だけどなぁ」
「ネイは少し覚えているんですよ」
「へー、だからコイツ呼んだのか」
 ええとゲンテリアスは首を縦に振り、ネイへと視線を向けた。
「ネイが覚えていることを話してはくれませんか?」
 そう言われてネイは記憶を探る。

 おぼろげな光景。輝きの日々。笑いあう人々。全て遠く霧の向こうにある。音は聞こえず、匂いも感覚も無く、ただ視覚だけが鮮明で、美しい。誰かと話している。何かを共に食べていて、小突きあう。淡い、優しい、かすかな思い出。
 淡い思い出を言葉にするのに手間取りながら、ネイは一つ一つ語った。浮かぶ光景のままに。
「と、いろいろ浮かぶものはあるけど、はっきりしたものはない。詳しく思い出そうとするとたんに見えなくなるんだ」
「はー、おれはまったく覚えてないなぁ。自然にやってる動作って奴はあるけど」
 お前はどうだ? とウェストはゲンテリアスに問いかける。さっき話していた理論は覚えていたことだろ? ──と。
 ゲンテリアスは緩やかに口元に笑みを浮かべた。困ったように眉を寄せつつ苦くこぼす。
「何か、ひらめくことがあるだけですよ。記憶があるわけではありません。先ほどの理論は記憶の中から湧き出たものなのでしょう。けれど、私は何故その理論を知っているのかわかりません」
「世界が壊れた可能性──ってぇ理論が記憶の中から浮かんでくる時点で、お前はどんな生き方してたんだか」
 ウェストはからかうようにそう言い、「さあ」とゲンテリアスが笑みを深くした。
 “世界が壊れた可能性”、それがさっきゲンテリアスとウェストが話していたことなのだろう。ネイはそれを頭の中で繰り返し、ごくりとつばを飲む。

 “世界”が壊れた。

 それは何故だ。


 慌しく階段を下りてくる音が聞こえた。顔を合わせて知恵を絞っていた三人は同時に階段を見る。
 言い争う声が近づいてくる。
 一階へと先に姿を見せたのはシースだった。その彼が一階の床を踏みしめようとしたとき、すぐ後を降りてきたキリルが彼の腕を掴んだ。引っ張られてシースの片足は床を踏みしめることなく宙に浮く。
「だから、危ないって言ってるだろ? 何でわかんないんだい」
「はなしてよ! ぼく、行かなきゃ」
 キリルは弱り果てたように、シースは涙を瞳一杯に溜めて口々に言った。ネイがすばやく二人のもとに足を運ぶ。
「どうした?」
 近づいたというのにシースはネイを見ようとしない。いや、ネイのことなど気に留めない。ただ出口へ手を伸ばしている。
 だからネイが尋ねた相手はキリル以外ありえなかった。ちらり、とシースを一瞥する。
「行かなきゃ。だって、よんでる。行かなきゃ。行かなきゃ。はなして。ぼくは行く。はなして」
 シースの言葉は脈絡なく紡がれる。
「どうしたって言われても、このとおりさ。仮眠とって休んでたら突然起きだしてねえ。窓を見たかと思えば行かなきゃとかわけのわからないこと言って、外に行こうとする。まったく、なんだってんだい」
「外に出たい?」
 ネイは眉を寄せる。そして今度はしっかりとシースに目線を送った。睨むような目線を。
「こんなときにか?」
 吐かれた言葉はとても低く、シースが体を硬くする。目線で、声で伝えられた感情は幼子を正気に戻したらしい。幼子は恐る恐るネイを見上げた。
 キリルがシースを床へ降ろし、手を放した。
「おい、落ち着けよ。そんなに怒んなくてもいいだろ。影は見当たらないし、ちょっとぐらいなら外に出たって」
「その油断が危険なのがわかんないのか、あんたは」
 たしなめようとしたウェストを睨み、ネイが彼の発言を責める。
 と、目を放したのが悪かったのか、シースがネイの横をすり抜けた。瞬く間にドアを開け放ち、外へ身を躍らせる。
 それを目ざとく見つけたキリルが頭に血を昇らせた。
「あ、こらっ。一人で行っていいとは言ってないよ!!」
 消えた幼子を追いかけて、飛び出していく。
 何の武器も持たずに飛び出した彼女の無用心さに苛立って、ネイは舌打ちした。ずかずかとウェストの前まで歩み、机を両手で叩く。
「お前のせいだぞ」
 すごい剣幕で睨むとウェストが肩をすくめた。ネイは彼から目をそらし視線をすばやく走らせる。幸い目的のものはすぐ側にあった。机の上に。
 ネイは机の上に置かれていたカバンを引き寄せ、中にあった聖水を乱暴に数本ひっつかむ。そして彼自身も二人を追いかけて外に出た。
 残されたウェストはのんびりと戸口から顔を出し、去っていく青年の後姿に手を振る。緊張感の無いその姿にゲンテリアスが苦い笑みを浮かべ。
 目線を落としたところで目が釘付けになった。彼の視線の先にはネイのめくっていた本がある。ゲンテリアスは何かの力に引き寄せられるかのごとく、手を伸ばした。


+++


 飛び出していったシースの姿も、それを追いかけたキリルの姿も見失っている。ネイは手の中の聖水を握り締めた。
 もし彼女らがネイの追いつく前にあの影に出会ったら──。
 そう思うと背筋が寒くなる。ウェストの腕にあった痣が脳裏に浮かび、足を速めた。
 急がなければ取り返しのつかないことになる。
 ネイはせわしなく辺りを見回し、全力で走り続けた。均衡の取れた静寂を足音で壊しながら、影達を警戒しつつ。
 結果、ある角を曲がったところで前方に人影を捕らえる。赤茶と黒髪。間違いない。キリルとシースだ。そう確信して、彼らの元に走る。
 彼らは向かい合って立っていた。シースが少しうつむいている。
「何で飛び出したんだい!」
 ほかに物音が無いだけあって、怒気をはらんだキリルの声は良く響く。遠目でもシースがびくりと体を震わせたのがわかった。言葉を詰まらせながら、返答する。
「だ、だっておねえちゃんが」
 そこまで言って鼻をすすった。きっと深緑色の瞳には涙を溜めているだろう。キリルが怒らせていた肩を落とし、シースの頭に手を乗せた。
 いつもの光景にネイは息を吐き、緊張していた精神を緩める。
 だが、次の瞬間彼らの近くにある建物を見て青ざめた。……影が建物の上に。
「上だ!!」
 ネイの叫びに、ようやく彼が近づいていたことに気づいたのか二人はまずネイを見る。その間に影は跳躍し、シースの側に降り立った。キリルが突如現れた影の存在にひるみ体を引く。
 影は動かない。シースは大きな瞳一杯に影を収め、一つ瞬いた。瞳に溜まっていた水が水滴となって頬を伝う。おびえることなく、シースは影へと手を伸ばし──。
 その瞬間、ネイは見た。

 幼子は満面の笑みを浮かべていたのだ。

「シース!」
 己を奮い立たせ、キリルがシースを背後から抱え込んで影から引き離す。シースから表情が消えた。入れ違いにネイが前へ飛び出す。
 すばやく手に持っていた瓶を取り出し、栓を抜いた。中の水を影にぶちまける。
 影は抵抗もせず、短く「アァ」と音を発して消えた。
 すさまじい咆哮を覚悟していただけにネイは胸をなでおろす。それから振り返った。
 キリルも安堵して、手を伸ばしたままのシースを放す。シースがその場にしゃがみこんだ。目線はネイに向けられている、がネイを見ていない。おそらくネイの向こう側にいた影を見ている。
 ネイは怪訝な顔をした。静かにシースへと近づくが、それでもシースはネイを見ない。
 とうとうネイはシースの目の前まで来て膝を折った。幼子に視線を合わせ、幼子の瞳を覗き込む。
 すぅ、と音も無くシースの頬を濡らすものがあった。唇が戦慄く。
「おねえちゃんが」
 か細い声を聞き取って、キリルとネイは息を呑んだ。
 一言発すると堰を切ったように涙が流れ出す。それを伴い、シースは喚いた。
「おねえちゃんがおねえちゃんがおねえちゃんがー!!」
 心からの慟哭に年上の二人は幼子を見ていることしかできなかった。