1.何が消えた?

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 ふわふわと意識が漂っている。ふとすればその意識すらも引きずり込みそうな闇。それを身近に感じながら、重いまぶたを押し上げた。
 最初に目に飛び込んできたのは、白。一瞬何のことだかわからず、青年はぼんやりとその白を目に映す。
 ああ──そうだ。
 蘇る記憶に身をゆだね、目を閉じる。
 これは“空”だ。
 思い出したことに満足し、意識を引かれるがままに闇へと落とす。
 が。次の瞬間左足に衝撃が走り、青年は反射的に飛び起きた。
「ッ!!」
 あげそうになった悲鳴を押し殺し、じんじんと痛む左足の脛を押さえる。痛みをかみ殺して、青年は視線を走らせた。青年の左足があったであろう場所に伸ばされている足。その足の主を見れば、幸せそうに眠りこけている幼子だった。性別は男、年齢は結構年下。髪色は闇のような漆黒で、瞳は閉じられているためわからないが緩んだ笑みを浮かべている。
 こいつ。
 その幸せそうな顔に殺意を覚え、青年は幼子の頭を軽く殴った。
 殴られた幼子は顔をしかめたが目を覚ます様子はない。寝返りを打ち、誰かの手の上に自らの手をのせただけだ。
 思わず手の主を見て、目を丸くする。辺りの様子を伺い、青年は青ざめた。
 どこまでも続く荒れた大地。ところどころにある木々にも生気は感じられず、緑はない。有るのは茶色い枯れた大地と白く澄んだ空のみ。
 そしてその大地に重なり合って数人の男女が倒れていた。青年も含めて五人もの人間が。
「ここ……どこだよ」
 青年の記憶の中にこの大地はなく、また共に横たわっていた人々の顔も見覚えがない。
 誰だよ、こいつら。
 不安が心から染み出してくる。
 何故ここにいるのか。何故共に気を失っていたのか。何もかもわからなかった。
 喉元までこみ上げてきた恐怖を青年はつばと共に腹へと返す。それから息を深く吸い込んで吐いた。
 落ち着け。とりあえず落ち着け、俺。
 青年はそう言い聞かせて、頭をめぐらせる。すなわち、この状況がなんであるかについて。
 酒……はまだ飲めないもんな。酔って前後不覚になって記憶が抜け落ちてるってことは無し、と。
 大体ここどこだ? 俺が寝る前にいたところは……。
 思い出そうとすると自然に視線は上に行く。考えているうちにだんだん眉間にしわが寄っていった。
「何も覚えてない、ってか」
 苦い息を吐く。
 どこにいたか思い出そうにも、どんな場所があったのかすら覚えていないのでは何も浮かばない。同じように一緒にいたであろう家族、もしくは友人のことを思い出そうとしても無駄だった。片鱗すら浮かんでこないのである。
 やばくないか、これ。
 もしや記憶喪失というやつなのかもしれないと思うと、記憶喪失の人間の定番文句の『ここはどこ? 私は誰?』が浮かんだ。こういうことは覚えているくせに、どこでその定番文句が使われていたかを思い出そうとすると途端に記憶が途切れる。
 『ここはどこ?』には答えが出ている。『わからない』だ。では次に考えるのは自分が誰か、だろう。
 青年は恐る恐る自分が誰かを考え始めた。これで何も思い出せなかったらと思うと背筋が寒くなる。
 名前……は─…ネイ。………………苗字を思い出すのは無理っぽいな。他は…?
 自らの名前を苦労して探し当て、それでも苗字を記憶から見つけるのは諦めて、別のことを探し出す。そしてぶち当たるのは闇、闇、闇。まっさらな記憶が持つ闇だった。
 名前以外は何も思い出せない。
 青年─ネイは肩を落とした。どうすれば良いか、何をするべきかわからない。地に倒れている人々を見るが、彼らはまだ起きそうに無かった。
 健やかに眠っている人々と枯れた希望も無い大地を見つめているのが辛くなって、ネイは顔を上げる。白く澄んだ空が彼を迎えてくれた。一面の澄んだ白にネイはふぅと吐息を漏らす。この空だけは何も映さない。ただ永遠に白いだけだ。
 不変の白に安堵して、だが記憶が何かを訴えてきてネイは表情を硬くした。
 この違和感は、何だ。
 どこかずれているようなもどかしさ。それは何故だろうと考え始めたところで地を踏みしめる音が背後から聞こえた。
 振り返ると長い薄緑の髪を背後で一本に結った男が歩いてくるのが目に入る。男は白衣を着ていて、瞳の赤茶と髪の薄緑色が今までの世界と違って印象的だった。
 男はネイを見て、柔らかく微笑む。
「ああ、目が覚めたんですね」
 よかった。
 微笑んだ男はネイの元まで来て歩みを止めた。柔らかな雰囲気とは裏腹に長身で、ネイは見下ろされる形になる。
 そのことにネイは眉をひそめた。
「あんた誰」
 ぶっきらぼうな言葉を吐く。敵意を大量に混ぜ込んで。
 敵意を感じたであろう男は僅かに苦笑したが、それをいさめるようなことはしなかった。一方、ネイはますます不機嫌になる。
「ゲンテリアス、と申します。苗字、年齢、職業等他のことに関してはわかりません。記憶が無いので。あなたは?」
「……ネイだ。それ以外は知らない」
 こうも素直に答えられてはあがくこともできず、ネイは舌打ちしながらも答えた。男─ゲンテリアスから目線を外し、あらぬ方向を見る。白い空を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
「ここはどこだか……あんたは知ってるのか」
 尋ねるのが不本意だといわんばかりの言いようだった。
 ゲンテリアスは首を横に振る。
「わかりません。少し周りの様子を見てきましたが、手がかりになるものはありませんでした。白い空と枯れた大地が広がっているだけです。かなり遠くのほうに何か町のようなものが見えたのが、唯一の収穫でしょうか。ここに何故倒れているのか、ここはどこなのか、私たちは誰なのか。現時点では何もわかりません」
 彼の話した無いようにネイは息を詰まらせた。

 わからない。

 何がわからない? 
 ──何もわからない。
 誰がわからない?
 ──誰もわからない。
 誰も、何も。
 
 知らない。

「ん……ぅ」
 静寂の中に声が振ってきた。地面に横たわっていた人々のうちの一人が身じろぎする。地に手の平を着いて上体を起こした。起きたのはまだ幼い─でも先ほどの幼子よりは年上に見える─少女だ。黒く長い髪を二つに縛っている彼女は深緑の瞳を擦り、たたずんでいる二人を見る。
 少女を見ていた二人の瞳と、少女の瞳が交差した。少女はぎょっと目を見開き、すぐ傍らの幼子の肩を叩く。
「起きて、シース。変な人がいる」
 変な人、と言われたネイとゲンテリアスは思わず顔を見合わせた。

 少女に起こされた幼子に続き、眠っていた他の人も目を覚ました。誰もが知らない面々に囲まれていることに顔色を変え、誰もが自分の名前以外、記憶がない。
 これは何かあったようですね、と言ったゲンテリアスにネイ以外の全員が頷いた。ネイだけはそっぽを向いていたが。
 そのうち、いつまでもここにいるわけにもいかないというゲンテリアスの冷静な提案にしたがって歩み出した。
 六人で、彼が見かけたという町らしき場所へ向って。

「おねえちゃん。つかれたぁー」
 寝ているとき、ネイへ痛い一撃を食らわせた幼子シースが不満を口にして、目の前を歩くものの袖を引いた。シースの目の前を歩いていた少女ラフェナは立ち止まり、シースの頭を撫でる。
「町まで歩いたら休めるから。がまんして」
 ね? と優しくさとす。
 彼らが姉と弟であることは自然な流れでわかったことだった。明確な記憶があったわけではなく、ただ起こしたラフェナを見て、シースが「なぁに?おねえちゃん」と言った。それだけだ。後に名前を確認したときに聞いてみれば、何故だろうと二人とも首をかしげた。ごく当たり前に日常として行動を起こしたからこそ、わかった。それだけだ。
 姉にさとされ、シースはうんと小さく頷く。
 二人のやり取りを見守っていた面々が前を向いて歩みを再開した。
「まちについたら、なにがあるの?」
 無邪気な笑顔でシースは姉に尋ねる。ラフェナは幼い弟の質問に言葉を詰まらせた。
「何があるかはわかんないけどねぇ」
 すぐ後ろを歩いていた女性から助け舟は出される。赤い髪を肩にたらしている彼女の名はキリルといった。キリルは漆黒の瞳の片方を瞑る。
「“何か”はあるはずさ。それだけで、今のあたし達にゃあ十分だよ」
「なにがあるかな」
「シースは何があるとうれしい?」
 尋ねてきたラフェナに、シースは目を輝かせた。
「ぬいぐるみさん! あとおーだまと、わっかと、もーふと」
 あれも、これも。
 何もわからない不安の中、幼子だけが楽しそうに話している。それをラフェナとキリルは微笑ましく見守っていた。話しながらも歩みは進めて。
「大丈夫ですか? 少し、顔色が悪いようですが」
 そんなことを問うたのは一番前を歩いているゲンテリアスだった。彼は町への道を先導しながらも背後の皆を気遣っている。
「だっ、大丈夫です。少し疲れただけです。平気です。平気」
 尋ねられた二番目を歩いている少女は慌てて首を振った。言葉とは裏腹に汗が額ににじみ、息は荒い。我慢しているのがよくわかってしまう。
「なら良いのですが。無理はしないでくださいね」
「は、はい……」
 少女は、ルメリアはうつむいた。心配させてしまったことが不甲斐ない。後ろを歩いている姉弟は平然と歩いているのに、どうして自分は体力がないのだろう。
 彼女がうつむくと茶色の前髪に桃色の瞳が隠された。そのことにゲンテリアスは心配そうに眉を寄せる。
 だが、最後尾から送られる視線にうながされゲンテリアスは前を向いた。先導するものがいつまでも後ろを向くな、と青の瞳は雄弁に語っていたからだ。前を向いても敵意を含んだ視線は送られ続ける。
 今六人は一番前がゲンテリアス、次にルメリア、次にラフェナ、シース、キリルと続いて、少し離れて最後尾にネイがしぶしぶ歩いている状態だった。
 半ばネイの意思を無視して決められた町行きに、ネイも仕方なく従っている。それは見知らぬ地で一人取り残される危険を思ったからであり、断じてゲンテリアスの提案を受け入れたわけではないとネイは自分に言い訳した。