目の前が回る。瞼が落ちてくる。言葉を発しようと唇を動かしても、声は出なかった。
──どうして? どうして、こんな──……。
【堕】
リューはある屋敷の前で立ち止まり、屋敷を見上げた。久しぶりのバーナーズ家の屋敷である。屋敷は前と変わらない様子でその場所に立っていた。領内にある邸宅とは違い、首都・ヘッポ=コーマルの邸宅はあまり大きくはない。だがところどころに細やかな装飾がなされており、バーナーズ伯爵家の気品がどことなく感じ取れる。
「元気にしてるかなぁ……」
最後に会った彼女の姿を思い浮かべて、つい笑みがこぼれた。フローラは先日16歳になったはずだ。誕生日パーティには呼ばれなかったものの、お祝いの言葉を述べなければなるまい。
軽く蝶ネクタイを締めなおし、身だしなみを確認する。そしてドアノッカを手にとって、鳴らした。
+++
通された部屋には誰もいなかった。いつも出迎えていたバーナーズ伯爵も、フローラもいない。
「ここでお待ちください」
執事は義務的にそういって頭を下げると、そのまま部屋を出て行く。一人取り残されたリューはソファーに座り、落ちつかなく辺りを見回した。
見覚えのある部屋。置かれている美術品はリューが注意したとおり、日の当らない場所にある。窓からは日が差し込め──だがどこか、寒々しい。
身じろぎをすると、その音だけが響いていく。そんな気がする。
どれぐらい待っただろうか。閉じられていた扉がようやく、悲鳴にも聞き間違えそうになるような音を立てて、ゆっくりと開かれた。雪のような肌をしたフローラが姿を現し、ドレスをつまんで会釈する。ようやく現れた彼女に、リューはほっと息をついた。
「お待たせいたしまして、すみません〜」
自然な動作でリューのすぐ隣にフローラは腰を降ろす。
「あ……いや」
それだけで、先ほどの安堵した気持ちが消えうせた。何故か緊張した心を押し隠し、リューは笑みを浮かべてみせる。少し座りなおしてから、フローラと向きあった。
「まず先に。成人おめでとうございます、お姫様」
フローラの片手を取り、流れるような動作で手の甲へと唇を寄せる。
「ありがとうございます〜」
恥らったようにフローラはもう片方の手を頬に当てて、頬を赤く染めた。彼女のそのような様子に、リューの緊張もほぐれていく。
「ところで、バーナーズ伯爵はどこにいるんだい?」
「お父様でしたら、今日も仕事ですわ〜。出かけておりますの〜」
「おや。じゃあ仕事の話は帰ってきてからかな」
微笑を浮かべて、リューはおどけるように首をかしげた。すると、フローラが穏やかな笑みを浮かべ、リューがまだ手を取っていた片手に、残った手を添える。そのまま小さく細い両手でリューの手を包むように握った。
「その必要はありませんわ〜」
「うん? お姫様が仕事の話もしてくれるのかい?」
「ええ〜」
微笑んだまま、フローラは頷く。
「リュー様の仕事は〜、私に芸を見せてくださることですわ〜」
「ああ。ではこの道化師めをお呼びくださったのは、お姫様でしたか」
納得いったように、リューもまた頷く。フローラが「はい」と答えたとき──部屋の扉が開いた。リューは一瞬目線を向け、すぐにフローラへと戻す。その一瞬で見た相手の姿にほぐれていた緊張がまた高まった。
頑丈そうなローブをまとい、フードを深くかぶった長身の男。貴族の邸宅にいるには似つかわしくないその姿は、どちらかといえば路地や危険な依頼で見かけることが多いものだ。魔法使いか、呪術師か──……なんにせよ、良い印象はない。
フードの男は手に持っていた銀のトレイと美麗な模様の入った陶磁器をテーブルの上においた。
「フローラ様。ここに」
「ありがとうございますわ〜」
フローラが微笑みながら礼を言う。フードの男は立ち上がり、また部屋の外へと去って行った。リューの目線に気付いていたのか、いないのか……一瞬、ほんの一瞬、リューに突き刺すような敵意を向けて。
「……あの人は?」
「新しい家庭教師の先生ですの〜」
おっとりと答えながらフローラはティーカップに茶を注ぐ。
「はい、どうぞ〜」
「ん、ありがとね」
差し出されたカップを受け取り、だがまだ口はつけずにフローラを見た。
「飲まないほうがいいかもしれないよ、これ」
「……はい〜?」
口をつけようとしていたフローラが、首をかしげる。
「毒でも入っていたら、大変だ」
おどけた調子で──だがはっきりと言って、リューはティーカップをテーブルの上に戻した。フローラは目を丸くして、自らの持つカップの中身を見つめ、それから首を振った。口元に柔和な笑みをたたえる。
「大丈夫ですわ〜。先生の紅茶は何度も飲んでいますもの〜」
「いや、だけどね──」
「そんなに心配なら、私が先に飲みますわ〜」
「あ」
止める暇も無く、フローラは紅茶に口をつけた。一口飲んで、息をつく。そしてしばらく待つ。何も起こる様子は無い。
「ほら〜。平気ですわ〜」
にっこり、と微笑まれてリューは頬をかいた。
「ううん。そうみたいだねぇ。考えすぎだったかな?」
「心配でしたら、こちらを飲みますか〜?」
フローラが一口飲んだ紅茶を差し出してくる。それにはリューが首を振った。
「いいや。さすがにそこまで疑ったら、ねぇ。んじゃ、いただきますっと」
小さくいって、自分の分の紅茶を口にした。良い葉を使っており、入れ方もしっかりとしているのか、確かに染み渡るような感覚がある。
「どうですの〜?」
「ん。美味しいよっ」
「でしょう〜」
リューが同意すると、フローラが嬉しそうに笑った。くだらない話題を話しながら、芸をしながら時間が過ぎていく。一杯目を飲み干すと、フローラが二杯目を勧めた。それにリューは軽く応じ。
──カシャン、と陶器の割れる音が響いた。
「な……」
リュー手からティーカップが滑り落ちたのだ。だがそれに気を配る余裕もなく、強い睡魔に頭がぐらぐらする。可能性に思い至って、吐き気がこみ上げてきた。瞼は自然に下りてきて、普通に座ってすらいられない。
「リュー様、大丈夫ですか〜?」
動揺した様子も無い、フローラの声。割れたティーカップを拾うでもなく、彼女はふらつくリューの腕を引いた。抵抗することもできずに、リューはフローラの膝の上へと倒れこむ。
「疲れているんですね〜。ゆっくりと休んでください〜」
違う。見れば分かるはずだ。もっと慌てるはずだ。こんな風に、こんな風に平然としている彼女は、違う……。
──どうして? どうして、こんな──……。
リューは意識を失う直前、口の中だけでそう、彼女に問いかけた。
完全に眠り込んでしまったリューを、膝に乗せてフローラは愛おしそうにその髪を撫でる。いつもさまざまな表情をしているリューも、こうして眠っているときはただエルフとしての美しさが先に立つ。
静かに扉が開かれた。フードの男がそこに立っている。
「これで、リュー様は私のもの〜。私だけの、ものですわ〜」
うっとりと夢見るような口調でフローラが呟く。
「そうだ。そいつはお前のものだ」
「ナターシャさん、貴方の成し遂げられなかったこと、私がしてみせますわ〜」
どこか怪しい光りを瞳に称え、フローラは眠り込んでいるリューを抱きしめた。
さあこれで檻の中。
ここから貴方を出させはしない。