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「手を伸ばせ。欲しいものは、掴み取ってみせろ」
 薄く笑みを浮かべた男が、甘い毒を囁いた。

【淵】

 成人、婚約、結婚。昔から病弱であったフローラにはどれもどこか遠い話のような気がしていた。母親のアルマはどこへ出しても恥ずかしく無いように、とフローラに家庭教師をつけていたけれど、それ以上に医師から何があっても可笑しくないといわれていたのだ。
 だがその言葉に反して、フローラはもうすぐ16歳になろうとしている。父親は純粋に喜び、「リュー」も喜んでくれていた。
 母親は、といえば喜ぶよりも先に婚約者選びの話をし始め、父親の反対を押し切って候補を絞り始めている。
「リュー様……」
 部屋の椅子に座り、編み物をしながらフローラは息をついた。芸人であるリューは世界各地を旅している。フローラは暇なときはこうして、何かをしながらリューのことを想像するのが癖になっていた。
 3年前、フローラはリューに告白し、断られている。それでもフローラはリューのことが今でも好きだった。
 婚約者がリューならばどんなに良いだろうか。
「……でも〜、そんなことありえませんもの〜」
 呟いて、首を振る。リューは断ったあとにしっかりとその理由を話してくれていた。それを考えるとリューがフローラとずっと一緒にいてくれることはありえない。それに、何より母親は反対するだろう。身分が違いすぎる、と。
 母親とはあまり話していない。父親とも、話していない。家庭教師や召使は共にいるけれど、いつも、一人。
「婚約して結婚すれば、その相手は一緒にいてくれますわ〜」
 自分に言い聞かせるように囁いた。一番好きなのはリューだ。だが、結婚すればいつかは相手を好きになれるかもしれない。相手とはこの先ずっと一緒に生きていくのだから……。
 コンコン、とノックの音が響いた。
「お嬢様、新しい家庭教師の方が──」
「どうぞ。ご案内してくださいまし〜」
 執事の言葉に編み針をしまって、入るよう促す。
「いえ、ですが……」
 だが執事は口ごもり、なかなか後ろにいる人物を通そうとしない。フローラは少し首をかしげた。
「どうかなさったのですか〜?」
「……いえ。どうぞ」
 わずかに渋い顔で、執事が後ろに立っていた「家庭教師」を部屋の中へ通す。
 その姿を見たとき、フローラは思わず表情を強張らせた。
 「家庭教師」は深くフードをかぶっていた。顔はほとんど見えない。だがうける印象は明らかに今までの学歴が良い家庭教師、とは別ものだった。
「どうかいたしましたか?」
 敬語であるにも関わらず、どこか冷え冷えとした声が発せられる。心臓をつかまれたような感覚を覚え、フローラは胸を抑えた。
「い、いえ……。貴方は〜……?」
「ノール、と申します。今日から貴方の家庭教師を勤めさせていただきます……」

 ノールは不思議な男だった。絶対にフードは取ろうとはせず、ただ淡々と史学を教える。教え方は分かり易い。だが、フローラの母親であるアルマが探してきたにしては違和感のある男だ。
 フローラは母親に聞こう聞こうと思いつつも──なかなか母親に聞く機会がなく、ただ月日が過ぎていった。
 そして訪れた16歳の誕生日。ヘッポ=コーマルにある邸宅にて盛大に誕生日パーティ──と名の付く婚約者選び──が行われた。さすがに母親と父親と会うことはでき、一緒に挨拶をして回る。だがフードの男に付いては聞くタイミングを逃して、見事に聞きそびれていた。
 何人目かの婚約者候補とダンスをして、フローラは息をつく。パーティ会場を見回すが、リューはいない。今回、アルマがリューを呼ぶのを拒否したのだ。
「リュー様……」
 か細く呟いて、フローラは玄関ホールに出た。そのまま外へと足を運ぶ。外は既に夜。星が出ており、外気が肌に心地よい。
 二つの月と星を見上げた。
「この星空を、リュー様もどこかで見ているのでしょうか〜……」
 小さく呟いて、踵を返す。そろそろ戻らなければ、パーティの主役はフローラである。いつまでもここに居てはアルマにしかられてしまう。
「フローラ様」
 大広間に戻ろうと急いでいると、不意に声が掛けられた。振り向けば、ノールがそこに立っている。
「……あの、何の御用でしょうか〜?」
 戸惑った様子を隠せないまま、フローラはノールに尋ねた。家庭教師であるノールもまた、この屋敷で寝泊りしている……が、今まで誰かに見られるような場所に出てきたことはない。父や母の前にすら顔を出さなかったのだから。
「フローラ様、お話がございます。こちらへ」
 フローラの戸惑いを気にしていないのか、ノールはさっさと二階へ続く階段に向かう。
「え。ええと〜……」
「貴方が本当に望んでいることをできるよう、導いて差し上げます。さあ、早く」
「え」
 ちらり、とフローラは大広間へと続く扉を見る。しばし迷った末に、彼女は階段へと足を向けた。
 階段を上りきって、ノールは自分が泊まっている部屋までまっすぐ進み、フローラに中へ入るよう促した。そして、彼女が入ると同時に、扉を閉める。
 二人きりになると途端に後悔が襲ってきた。勉強を教わるときですらどこか気まずいのに、この状況ではますます気まずい。
「さて、フローラ様。貴方はこのままで良いのですか?」
 フローラが後悔していると、唐突にノールが話しかけてきた。
「……え」
「貴方は本当に、このまま誰とも知らない人と婚約してもよいのですか?」
 いつもどおりの口調で、きっぱりと尋ねられる。初めてノールと話したときのように心臓が苦しくなって、フローラは胸を押さえた。
「それは……でも、そういうものですから〜……」
「好きでもない人と結婚することが、当たり前なことだというのですか?」
 内容に反して、まったく感情が込められていない言葉。それでもフローラの胸に刺さっていた柔らかい棘を刺激するには十分だった。
「わ、私は〜……」
「やはり貴方は、まだ彼のことを好いている」
 言いよどむフローラの言葉をさえぎって、ノールが何処からか本を取り出した。ハードカバーの本とは違う、一回り小さな本だ。思わず受け取り、表紙を見る。題名は書かれておらず、ただ下のほうに「ナターシャ」と筆記体で書かれていた。
「それは、『ナターシャの日記』」
「なたーしゃ……? 誰ですの〜…?」
「誰かはどうでもいい。ただ、それは貴方が欲しい物を手に入れた結果の日記だ。もっとも、途中でヘマをしているが」
「欲しい物を、手に入れた……?」
 パラパラと、ページをめくる。ゆっくりと、じっくりと、じんわりと、中身を読んでいく。
「お前は、このままでいいのか?」
 内容とノールの言葉が頭の中を埋め尽くしていく。
「本当にこのままでいいのか? 手に入れる方法はある。お前ならもっと確実にできる。なのになにもせず、本当にこのまま、誰とも知らないものと結婚させられていいのか? 結婚したとしても、お前の母と父のように、幸せになれないかもしれないのに?」
 見つめていなかった。目をそらしていた。母親と父親が幸せではないことを。納得していないことを。──諦め切れていないことを。
 食い入るように日記を見つめるフローラに、ノールが薄く笑みを浮かべた。
「手を伸ばせ。欲しいものは、掴み取ってみせろ」
 差し出されたのは甘い毒。
 フローラはほんのわずかに。ほんのわずかに笑みを浮かべた。毒を飲み下したことも知らないままに、笑みを浮かべた。毒の痛みに覆われて、もう柔らかい棘は痛くない。

 フローラは、誰とも婚約をしなかった。



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