「リュー様。私は、貴方が──」
少女が言葉を切り出したとき、その関係は変化した。
【縁】
──リューセルスト=ラ・エルフィン。
そんな大層な偽名を「リュー」が使うことになったのは、七年前のことだ。得意先の貴族の勧めと、どうしても使わなくてはならないというしかたの無い理由で使うことになった。もっとも普段はリューで通しているため、使う機会はほとんどないのだが──。
「リューセルスト。今回もしっかりね」
「……あ、はい。お任せください」
一瞬、返事が遅れた。だが目の前のバーナーズ伯爵夫人は幸いにもそのことには気付かなかったようだ。彼女の真っ赤な唇が弧の形になる。少し首を傾げれば、こぼれんばかりの胸が揺れた。いつものように気合が入っているらしく、長い黒髪は頭上でまとめられ、首筋のはっきり見えるドレスを着て、爪も赤く塗られている。
「分かっているならよいわ」
高飛車に言い放つと、夫人は招待した客の下へと歩いていった。それを見送り、リューは回りに気付かれないぐらい小さく息をつく。
「まだ慣れていないようだな」
その時、面白そうな口調で背後から話しかけられて、リューは身体を一瞬強張らせた。目線をそちらに向けて、肩をすくめる。
「だって、なんだか自分の名前って気がしなくて」
気さくに話すリューに、話しかけたバーナーズ伯爵は笑みを浮かべた。
「もう七年も経っているのにか?」
「あんまり使ってませんし。それに、ぼくにとってはまだ七年ですよ、伯爵」
「ああ、そうだったか。つい私の感覚で考えてしまうな」
「そりゃあ、伯爵は人間ですからね」
気軽に軽口を叩き合う。七年前には考えられないことだ。七年前に初対面だった二人は、いまやひいきの芸人と、得意先のお客様である。七年の間に仲良くなり、また七年の間に伯爵は年を取った。
「そういえば、また美術品の一つがよくないところに置かれていましたよ」
「何? それはいけないな……直させよう」
思い出したようにリューが言えば、伯爵はしかめ面をした後に召使を手招きする。リューが保存状態の悪い美術品についての助言をこうして伯爵に行うのも、もう普通のことだ。
「それにしても、いいんですか? お客様が来る時間帯に、主催者がこんなところで芸人と話していたりして」
「主催者は私というよりほとんど妻だろう。構わないとも」
うんざりしたような口調で言った伯爵は、これまたうんざりした目線を妻に投げかけた。伯爵夫人は早くもやってきた貴族とおしゃべりを楽しんでいるところである。
そのような伯爵の様子を見て、リューはおや、と片眉を上げた。
「また喧嘩をしているんですか? この間きたときも喧嘩していたのに」
「またではない。まだ喧嘩しているんだ」
「まだ!?」
苦虫を噛み潰したような声音で言った伯爵に、リューが思わず声を上げる。伯爵の視線が鋭くリューにとんだ。
「ふれまわるような真似はよしてくれ」
「おっと、失礼」
口をふさいでにんまりと笑ってみせるリューに、伯爵は嘆くようなため息をつく。
「どうしてこうなってしまったんだか、皆目検討がつかないのだ……。この間の喧嘩の理由も分からない上に、こうも避けられては……。いまや、パーティ以外では目もあわせない。まるでかの“冷戦”の再現のようだ」
「それはちょっと大げさだと思いますよ? それに、それはただの物語だ」
「……君がそれをいうのか」
リューは肩をすくめて反論した。だが、伯爵は陰鬱な表情を崩さない。
「すまないと思うなら謝ればいいじゃないですか」
「すまない? どうして私がそのようなことを思わなければならないんだ? 妻は勝手に一人で怒って、私を許さないと決め付けているだけだというのに」
「自分を哀れんで嘆き悲しむのはやめたほうがいいですよ。夫人がここまで怒っている以上、貴方に原因が無いとは思えない」
鋭く言ったリューに、伯爵はかぶりを振った。
「説教はよしてくれ。私に原因がないことはハッキリしている──少なくとも、私は私なりに妻を愛してきたつもりだ。それなのに彼女があの態度ということは、最初から私達はあわなかったということだろう」
伯爵は完全に悲観的になっている。諦めてすらいるようだった。
「──ともかく、今はこの話は止めましょう。パーティが始まります。詳しい話は後で聞きますから、ほら、主催者としてしっかり準備を整えてください」
リューはそう言って会話を切り上げ、伯爵の背中を押すことしかできなかった。招待客は続々とやってきている。いつまでも伯爵夫人だけが応対しているわけにもいかないだろう。
「あ、ところで。我らがお姫様は何処にいるのですか? まだ姿をみていないんですが」
思い出したように伯爵に尋ねる。
初めてバーナーズ家に来た日に出会った、お姫様ことフローラ=バーナーズ。バーナーズ伯爵令嬢であり、今は13歳の少女である。
フローラの話題を出すと強張っていた伯爵の表情がほんの少し緩んだ。
「フローラならば、体調を崩して部屋にいる。妻は怒っていたが……無理は禁物だからな。隙を見て、様子を見に行くつもりだ」
「おや。では私は今から行ってきましょうか。芸をするまではまだ時間がありますし」
「ああ、そうしてくれ。フローラが喜ぶ。……リューが行くなら私も少し安心できるしな」
そう言い残して、伯爵は招待客を出迎えに歩いていった。その背を見送ってから、リューは二階にあるフローラの部屋へと歩き出す。
+++
「具合はどうですか? お姫様」
「あ、リュー様! いらしていたんですね〜〜」
リューは扉から顔を出して茶目っ気たっぷりに言った。ソレを聞いて、天蓋つきのベッドに横になっていたフローラが上体を起こす。長くなった髪がぱさりと肩から落ちた。いつもより肌は青白い。
「あ、ダメだよ、寝ていないと。具合が悪いんでしょ?」
やんわりとフローラを制して、リューはベッドの近くに歩み寄る。
「ああ、はい〜…」
小さく頷いて、言われるままにフローラはまた身体を横たえた。リューは自然な動作で頬に張り付いた髪を避けてやる。
「すみません〜。私、リュー様の芸、楽しみにしていたのですけど〜……」
「いいよいいよ。また芸なんて見せられるしね」
手をヒラヒラと振って、リューはテーブルとセットで置かれていた椅子を引っ張った。反対向きに座り、背もたれに腕を乗せる。
「お母様も、怒らせてしまいました〜……」
「大丈夫。きっともうおこってないさ」
「そうだと、いいのですけれど〜……」
表情を曇らせるフローラにリューは声を上げた。
「ああ、そうだ。君にだけ特別な芸を見せてあげようか」
「え? いいんですの〜?」
フローラの目が輝く。リューは「いいとも」と笑顔で頷いた。
「一、二、三。はい! このとおりーー!!」
手の中の紙人形が手を繋いだ状態にできあがる。フローラは楽しそうに微笑みながら、盛んに拍手をした。
「わぁ〜。凄いですわ〜〜」
「いやいや。これぐらいならまだまだだとも♪ 次はね──」
「次は何をやるんですの〜?」
リューが芸をして、フローラが笑う。そんなことを二三回繰り返し──リューはちらりと時計を目の端で確認する。
「これにて、芸は終わります。ご覧下さりありがとうございました〜!」
丁度良い時間で切り上げの口上を述べて、それを聞いたフローラがベッドの中から拍手を送った。
「私のために、わざわざありがとうございましたわ〜」
「いやいや。お姫様のためならいつでも芸をいたしますよ」
「ありがとうございますわ〜〜……っ」
再度嬉しそうに礼を言ったフローラが口を押さえる。何回か咳がこぼれる様子に、リューは穏やかに微笑み、だが有無を言わせぬ口調で言った。
「ほら。そろそろお休みなさい、フローラ。これ以上無茶はいけないよ」
「リュー様……でも、今回はすぐ帰ってしまうのでしょう〜?」
潤んだ薄紫の瞳で、フローラがリューを見上げる。
「うん。もう予定が入ってるからね。だけど、またすぐ来るからさ。今日はもうお休み」
ポンポン、と布団を軽く叩く。
フローラはなかなか返事を返さなかった。何かに迷っているようだった。
そんな様子の彼女にリューは黙って返事を待つ。心地よいリズムで布団をたたきながら。
「……リュー、様」
やがて決意を込めた瞳でフローラがリューを見つめた。青白い頬に、赤がさす。リューがほんの少し、目を細めた。
「なんだい?」
優しく問いかける。その声音に背中を押されるように、フローラは唇を動かした。
「リュー様。私は、貴方が──」
好きです。
言葉は放たれ、響く。フローラは恥ずかしそうに俯いた。その様子を見ながら、リューは優しく微笑み──。
「ごめんね」
柔らかい棘を、刺した。