夢と幻


氏 名 : 松原 要 [マツバラ カナメ]
年 齢 : 28歳
性 別 : 男
職 業 : バイオリニスト
届け先 : 同市下町6−7−13 聖幸病院305号室
 夢No.  オマカセ。当人が幸せになる夢。
悪 夢 : 見ている。  見ていない。  不明。
依頼者 : 松原 あい [マツバラ アイ] 妹
連絡先 : ×××−×××−××××

 ハローん元気? 俺は元気。その証拠に現在仕事中でっす。
 あ、隣を歩く美丈夫は俺の同僚の西月。深緑がかった長髪が夜風になびいて、かなり様になってる。まぁ、おれ自身もなかなかいい線行ってるとは思うよ? 背は結構高いし、髪も金髪だったりして、目立つし。けど西月にはかなわないんだよなーこれが。
 俺が軽く肩をすくめると同時に、風が吹き抜けていった。ぶるりと身を震わせる。これが日中なら暖かい太陽の光が降り注いでたりしたんだろうけど、あいにく今はお月様がぽっかり浮かんでいるだけだ。
 住宅街は静まっており、道路を通る車も見えない。俺達はただ黙々と道路を歩いていく。
 どうしてこんなところにいるかって言うと、まぁ仕事だ。文字通り、夢を届けるステキな仕事の真っ最中。もちろんここでじゃない。今は移動中だ。目指すは聖幸病院305号室。
 それにしても寒い。日中暖かかったからといって、Tシャツを着てくるのはやっぱり無謀だったか……。
「何一人でぐだぐだいってるんですか?」
「え!? いやぁ何でも〜」
 怪訝な目で見られ、俺は笑ってごまかす。
 あ、あぶねー。横を歩いてた西月に怪しい奴って見られてたぞ今! 俺は怪しく無いぞ。ただちょっと読者に親切に解説してやってただけで……。
 ばくばくいってる心臓を収めつつ、俺は心の中だけで言い訳した。
 そういえば自分のこと紹介してなかったな。俺、相馬裕樹。ふつーの高校生兼夢の宅配便屋さん。まぁ、よろしく。
 と、そうこうしているうちに目的地にとうちゃーく。見上げれば月夜に浮かぶ赤十字。月の光を受けて病院の壁は青白くなっている。耳につくのは静寂のみ。
 ふわりと髪をなびかせ、入り口へ歩いていく西月に対し、俺は病院の前で足を止めた。もう一度病院を見る。ごくりと唾を飲んだ。
 いや、だって……なぁ?
 立ち止まった俺に気づいたのか、西月が振り返った。右目のモノクルが月の光を反射する。
「どうしたんですか? 入りますよ」
「……よ、夜の病院って怖いよなぁ。幽霊とかうようよ出そうで」
 口に出すとつい想像してしまい、俺は口を閉じた。やれやれと西月がため息を吐く。
「夢を売る立場の私達が幽霊を怖がってどうするんですか。いきますよ」
 呆れた声でそう言われるが、俺の足は動かない。完全に固まってしまっている。
 はは、と強張った笑みで西月を見た。俺の視線を受け、西月は額に青筋を浮かばせる。
「往生際が悪いですよ、裕樹」
「いや、だって足が動かないんだ。しょうがないだろ。俺だって止まりたくて止まってるわけじゃ」
「いい加減にしないとお小遣いを減らしますよ」
 ぎゃあ、そんな殺生な!! 鬼! 悪魔! 
「何か言いました?」
「な、なんでもありませんデス。ハイ」
 心の声を見透かしたのか、西月はすがすがしい笑顔で俺に向けた。必死に俺は否定する。
 ぶんぶん、と首を振ってから、俺はじっと西月を見た。
 お小遣いが減るのは嫌だ。けど、足は動かない。ここは最後の手段。西月をあつい目─すがっているともいうか? そんな目で見つめてみる。ちょっと目を輝かせる努力もしてみたりして。
「西月ぃ」
「なんですか」
「足動かないから引っ張っててくれー」
「裕樹……」
 お、呆れられたか。

 結局俺は西月に引っ張られる形で病院の敷地内に足を踏み入れた。入ってしまえば踏ん切りがつくのか、今は俺の足も正常に動いてくれている。ちらちら飛ばされる西月の視線が生暖かいけど、まぁそれは気にしないでおくか。
 にしても。
 静かである。しーんという音が聞こえてきそうなほど静かである。
 多分入院患者と宿直の医者さんしかいないんだろう。こそこそと進む俺らの目の前に立ちふさがったのは、監視カメラ。
「あれ、絶対映るよなぁ」
「そうですね。玄関から入るのはあきらめましょうか」
 またかよ! 俺らは内密に仕事をこなさなければならないので、姿が映る監視カメラはご法度。姿が映る危険より、空飛ぶことをえらびまぁーす。
 や、ふわって空浮くわけじゃないぞ。どっちかっていうとジャンプ力の強化っていうか……。ここら辺人間離れした力だって俺も思う、うん。
 とにかく、そんなような企業秘密な力を使って、三百五号室の窓にかじりつく。今の力のほかに鍵開ける力もあるからそれで窓から侵入。ホントどろぼうに持ってこいの力なんだろうなぁ。
 部屋に入ってすぐに耳が機械音を捉える。ベッドを取り囲むようにしておかれている機械、そしてそこから伸びているチューブ。そのチューブの先はベッドの住人へと繋がっていた。
 青白い顔で身じろぎ一つなく、横たわっているのは受取人の松原要(まつばらかなめ)だろう。交通事故にあい、この病院に運ばれてきてから早数ヶ月。容態が好転することも急変することもなく、眠り続けている。植物状態ってやつなんだろうな。
 今回の届け先がこいつなら、依頼人は松原要の妹だ。眠ってる兄貴に幸せな夢を見せてやりたいとか、そんな理由らしいことは聞いてるし想像できる。泣かせるねぇ。
「本人照合完了。松原要当人と確認します」
 西月が書類の写真と見比べ、認証した。俺は松原を見たまま、口を開く。
「意識無い奴の中、入るの初めてなんだけど」
 思うままに不安を口にした。
 実は俺、あまりこの仕事を始めて長くない。最初のほうは難しい仕事はなかったし、大分なれてきたものの、経験不足は否めない。
 西月の指示を仰ぎながらも、俺はしっかり額に手を乗せた。西月も俺の肩に手を乗せながら答える。
「実力によりますね。まぁ、裕樹の実力なら大丈夫ですよ」
 うわ、俺次第? 西月からのお墨付きはもらったけれど、不安だ。ま、不安でもやるしかないんだけどな。
 俺はゆるやかに力を込めた。抵抗なしに力がなじんでいく。ゆっくりと口を開いた。
「お届けものでーす。直接手渡しで」
 いつも通りの体が浮く感じ。ふわりと浮く流れに身をゆだね、俺と西月は松原要の深層心理へと落ちていく。
 あー意識なくても変わんないかも。
 そんなこと思ったのもつかの間、足が地に着いて開かれた扉が閉ざされるとあるのは闇。一瞬ここがどこなのかわからなくて、俺は目を瞬かせた。
 ただの闇を夢の中で見るなんて……ありえない。

 人間の睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるのは一般的に知られてることだと思う。でもって、人間はレム睡眠のときに夢を見る。夢を見ない人はいない…ってぇのがどこかで聞いた定説。
 だったらノンレム睡眠のときに中に入っちゃったんじゃないかって? それもありえないんだ。
 ノンレム睡眠のときはそもそも俺の力は作用しないわけ。夢も見てないところに入ってっても意味無いだろ。荷物も渡せないし。
 だから、真っ暗な闇の空間が目の前に、ってことはないはずなんだ。
 闇の夢を見てるってか? んな馬鹿な……でもそうかも。

「裕樹?」
「うわぁっ!?」
 考えてるところに肩を掴まれて、思わず振り払った。すると闇の向こうからむっとした雰囲気が伝わってくる。
「そんなに驚くことないでしょう?」
「に、西月か?」
「……あれ? 見えてませんか?」
「おう」
 声だけの西月に返事をした。どうやら向こうからこっちは見えてるらしい。雰囲気がやれやれという雰囲気に変わる。俺だって雰囲気だけならわかってるぞ!
 少しして、淡い光が灯った。だんだんと目の前の輪郭がはっきりしてきて、西月が現れる。光っているのは西月の持ってる符だった。
「これで見えるでしょう。さて、この状況をどうするか……」
 にこりと微笑んだ西月は続けて思案するようなそぶりを見せる。
「何か、やばそうだぞ。普通の状態じゃないよなぁ?」
「ええ。彼にとって私達は招かざる客。荷物の受け取りどころか、全ての物事を拒否していた状態に入ってきた侵入者ですから。このままだと、追い出されるのも時間の問題でしょうね」
「げっ」
 強制退去!? せっかく入ってきたのに追い出されるなんて冗談じゃねぇっ!
 俺が顔を青くしたその時! 視界が唐突に開けた。闇の世界から一転して光の世界へと放り出される。

 車線変更線の描かれた道路、白黒の横断歩道と傍らに立つ電信柱。現実世界とほとんど同じ光景に、俺は目を奪われた。隣にいるはずの西月の存在が薄れていくのを感じながらも、どうすることもできないまま、目の前の光景に見入る。
 何て鮮明な光景だろう。夢と現実の区別がつかなくなるほど、はっきりとした光景。
 俺は信号を見上げた。直立不動の人間の影のようなものが赤色をバックに立っている。パッと赤色が消え、青色が点灯した。こっちは歩いている人の影をかたどっている。ちらり、と片手に持つものを見てから、俺は足を踏み出す。持っていたのはバイオリンケース……。
 違う、俺じゃない。これは相馬裕樹の視点じゃない。だって、俺はバイオリンケースなんて持ってない。
 この光景は俺が見たわけではなく、見えている視界自体が勝手に動いたんだ。
 そう思っている間にも視界は横断歩道を渡っていく。
 ドクン、と心臓が跳ねた。思わず口をついて出そうになった言葉は喉の奥で消える。
 だめだ! 渡るな!!!!
 一瞬の轟音。甲高いブレーキ音。気づいた視界の主が振り向いたと同時に視界がぶれた。コマ送りのように視界が移動していく。奇妙に青い空、灰色のコンクリート。
 がくん、と視界が落ちて、灰色のコンクリートが目の前に。
 バイオリンケースはどこへいった?
 ふと沸いた思考は視界の主のものだろう。僅かに首を動かしてバイオリンケースを握っていたはずの手を見た。
 そこにあったのは。
 声を失うほどの、

 絶望。

「裕樹!」
 揺さぶられて、はっとする。見ると西月が真剣なまなざしで俺を見ていた。俺の目が西月を捉えると、彼は険しい顔を緩める。
「夢に引き込まれないでください。心配しましたよ……」
「あ……わりぃ」
 俺は短く謝った。宅配人は届け先の夢に感応してしまうことがある。それじゃあ仕事にならないから、魅入られたりしちゃいけなかったんだけど…まだまだ修行が足りないな、俺。
 と、頬を濡らすものに気づいて、手でそれをこすった。涙、だ。
 今のは松原要の夢だったんだろうか。なら、あの最後に見た光景は。必死に首を動かして見た、あいつの手は。
 俺は光景をありありと思い出してしまい、口を押さえる。今の俺は実体が無いはずなのに、吐き気がこみ上げた。だって、あんな。あんなのは。
 口を押さえていると、西月が背中をさすってくる。くそ。経験者の余裕を見せ付けやがって今に見てろ! 俺だって、もっと経験つんで、こんなのは平気になって。
 なんとなく悔しくて、心の中で叫んだ。まぁ、どうせ面と向っていえないんだけどな。
 ようやく吐き気がおさまって、俺は手を下ろした。西月もさする手を止める。
「事故の記憶を夢とするなんて、悪い趣味ですね」
 顔を上げると闇を睨んでいる西月がいた。凛とした瞳の中に炎が見えた気がする。結構コイツは熱血なんだ。
「ほら、また来ますよ」
「え?」
 西月の言ったとおり、同じ映像が目の前に現れる。こんな風にコイツは何度も同じ光景を見せられてるんだろうか。おそらく人生で最悪の光景を。
「同じ光景を見せるだけなんて、よっぽど能が無いらしい」
 嫌悪を含んだ口調で西月が吐き捨てた。普段の柔らかい物言いがなりをひそめ、モノクルが冷たく光る。
 おい待て。反射する光は無いはずだぞ。……まさか。
「オイちょっと落ちつけ! そのまま解放したら──!」
 俺の制止の声は既に遅かった。怒気と共に力が西月から放出され、風の吹かない場所に一風吹き荒れる。ひらりとなびく緑がかった髪の向こうの横顔は激しい怒りを含んでいた。
 ピシリ、と音をたてそうなぐらい一気に闇がひび割れ、砕かれた。バラバラと闇ははがれ落ち、白い空間が姿を表す。
 おおっ、と目を丸くし感嘆した俺に聞こえてきたのは舌打ちの音で。
「本体は逃がしたようですね。まったく、往生際の悪い……」
 まだ雰囲気をぴりぴりさせている西月がぼそりと漏らす。や、もう済んだんだし、そんなに怒気放出するなよー…怖いだろー…。
「……事故の夢は夢魔が原因だったってわけか」
「はい」
 恐る恐る声をかけると、怒気を引っ込めた西月が頷いた。俺は影で胸をなでおろす。だって怖いんだもんっ。
 ──夢魔っていうのは俺達の天敵だ。人の夢の中に潜んで幸せとかをエネルギーにして生きてる。幸せが喰われるから、夢魔に寄生された人間は悪夢を見るわけ。俺も何回か、夢魔には遭遇してる。まぁ夢魔も結構種類があるから、同じ夢魔に出会うことはないんだけど。(てか倒されるし)
「てか、符使えよ。後で困るだろ」
「範囲が限定できないときは使いたくても使えないんですよ。だいたい、もう少し範囲を狭められれば夢魔だって捕まえられて──」
「あー、まぁ今回はあきらめて。置いといて。さっさと本人探して届けよーぜ」
 ぶつぶつ言い始めた西月に俺は慌てて話題を切った。俺から振った話題だったんだけどなぁー。
「それもそうですね」
 西月は気にした様子もなく、頷いた。

 まぁ、闇が晴れてしまえばこれ以上は無いってぐらい楽な仕事だったな。白い空間は他にものが何も無いし、一つだけ色のあるものをさがせばそれでオッケー。
 思ったとおり本人だけがうっすら色有りで、すぐ目に付いた。
 白い空間の中でぼんやりと浮かび上がる松原要。俺らが近づいても気づく様子はなくて、じっと空を見てる。なんていうか……魂の抜けた表情で。
「松原要さんですね」
 西月が穏やかに話しかけると松原はこっちを見た。そこそこいい線行く顔立ちだけど、どうしても青白い肌と生気の無い瞳に目が行く。何か幽霊っぽい。
 松原は俺らを見て、それから血の気の引いた唇を僅かに動かした。
「ようやく迎えに来たのか。待ちくたびれたぞ。さぁ、わたしを連れてってくれ」
 ずい、と出された手の青さに俺はしり込みする。それより言われた内容が突飛すぎてよくわからない。
「な、なんだよ迎えって。俺らはアンタをどこかに連れてく気はないぞ!」
「……なんだ違うのか」
 俺が必死に否定すると松原は肩を落とした。何でがっかりするんだよっ。
「私達が死神かと思ったんですか?」
「……ああ」
 西月が俺の後ろから問いかけを投げる。その内容が内容だけに、松原は言葉を濁しながら頷いた。
 死神、ねぇ。まぁこの黒ずくめじゃ誤解されても仕方ないかもな……。あ、でも何でコイツ待ちくたびれてるんだ?
「死神と会いたいんですか?」
「ああ」
「死にたいんですか。何故?」
「生きる意味が、なくなってしまった」
 ずけずけと尋ねる西月に、松原はうつむいた。左手で右腕に触れる。その腕の先を見て、俺はうっと息を詰めた。
 手が、無い。手首からすっぱり、切り取られたように手が存在しなかった。
 思わず目をそらす。西月を見れば、あいつは真っ直ぐ手を直視し続けていた。よく平気だな。
「もう、バイオリンは弾けない。生きていても、意味が無い」
 深い絶望。目をそらしていてもわかる。とても深い悲しみ。
 ああ、コイツにとってバイオリンは全てだったんだ。
 ……だけど。
「あんたは、バイオリン弾くためだけにいんのか?」
 悲しみがわかっていても、言わずにはいられない。はっきり言葉を吐き出すと、松原ははっと顔を上げた。
「あんたはバイオリン弾きマシーンかって言ってんの! ……違うだろ。松原要が、あんたの名前だ。妹だっている、生きてる人間の名前だ。生きてても意味無い、なんて、いうなよ……」
 上手く言葉が出てこない。もどかしい。それでもその中で何かを感じ取ってくれただろうか。
 松原はただ黙っていた。ぽん、と俺の肩に手が置かれる。見ると西月が優しく笑っていた。俺の言葉を認めるかのように西月は頷き、それから松原を見る。
「私も、貴方がバイオリンを弾くためだけに存在しているとは思えません。でも少なくとも貴方はそう思っているようですね……。なら、続ければいいじゃないですか。バイオリンを。それで済む話です」
 何のためらいもなく言ってみせた西月を信じられない目で俺は見た。事故の瞬間の映像をこいつも見てるはずなのに、何でそんな無責任なことをいえるんだ?
 松原も同じ思いだったのか、ぎゅっと右腕を強く握りこむ。
「何言ってるんだ。わたしの手は──」
「そこにありますよ。ちゃんと。貴方が無いと思い込んでいるだけです。私にははっきり見える。貴方の手が……」
 西月が指差した。俺と松原はその示す先を見るが、無い。困惑する松原に対し、俺は西月を見る。
 思いがけず西月と目があって、ぎょっとした。ゆっくりと頷かれる。…なんだ?
「大丈夫。すぐ貴方にも見えるようになります。少し苦労はするでしょうが……貴方ならきっと乗り越えられる。その糧となる夢を貴方に」
 目配せされて、西月の意図がようやくわかった。ああ、そういうことか。俺と西月は同時に手を出す。あとは合図などしなくても自然な流れて俺らは言葉を発した。
「「幸せな夢、確かにお届けしました──」」
 俺ら二人の手の中から色が弾け、白い世界を塗りつぶしていく。真っ白だった松原の服も巻き込んで、あらゆる色が通り抜けた。松原の服が黒い燕尾服へと変わり、首元に蝶ネクタイが踊る。
 思わず目をつぶっていた松原が再び目をあける頃には、木漏れ日が差し込んでいた。白かった世界には青々とした葉をつけた木々があふれ、花は足元で咲き乱れている。さわさわと葉のすれる音と風の音のみが響く。言い表す言葉を俺の陳腐な語彙から探せば……地上の楽園、かな。
 松原は不思議そうに首をめぐらせ、ある一点で目を留めた。俺らに目だけで尋ねてくる。
「もう弾けるはずですよ」
 穏やかに答えた西月に、松原が両手の平を見た。右手は腕の先にあった。彼は目を見開き、再度俺らを見る。西月がしっかりと頷けば、顔を明るくした。くるりと向きを変えて歩き出す。
 松原が向っているのは彼の見ていた場所だ。木々の枝が少し途切れ、太陽の光が直接差し込む地面には切り株が鎮座している。そしてその切り株には木の節も鮮やかなバイオリンが立てかけられていた。まるで自然のコンサートホール。…そこ、くさいって言うな。
 まるで宝物のように─まぁアイツにとっては宝物なんだろうけど─松原はバイオリンを持ち上げた。弦をそっと当てて、優雅に引く。音は長く朗々と響き、小さな観客が集まってきた。動物達を観客に、松原はバイオリンを引き続ける。
 とても楽しそうに。嬉々として。
 俺らはそっとその場から離れた。夢中になっている松原は気づかない。しばらく歩いて、完全に彼の姿が木々に隠れる直前、俺は振り返る。一音一音丁寧に心を込めて言葉を発した。
「おやすみなさい。よい夢を」
 でもって、ちゃんと起きろよ。

 その夜、ミッションコンプリートした俺らは家路についた。符無しに力を使った西月は何度も大きなあくびをしている。つられて俺も眠くなってきた。
 後から聞けば、松原の手は一度腕から離れたそうだ。搬入された病院で腕をつなげる手術を行い、今は繋がっているけれど。現実世界で彼がもう一度バイオリンを弾くまでどれぐらいかかるだろうか。苦労するのは確かだろうな。
 つい、何度も病院を振り返ってしまう。すると今にも眠ってしまいそうな西月が言った。
 彼はあきらめませんよ。あんなにステキな夢を見たのですから──と。

 俺が松原要の名前を噂に聞くのはまだ先の話だ。


裕樹16歳。仕事をはじめて間もない頃。オマケ