|
ラエルラには表と裏がある。 聖都、王都に継いで発展している交流都市ラエルラ。ちょうど聖都と王都の中間地点にあり、また他の都市と都市を繋ぐにもちょうどいい位置にあるこの都市は、貴族の住んでいる上流区と庶民の住む下流区にこそ分かれているものの、活気にあふれている。 毎晩上流区ではパーティーが開かれ、貴族はカジノや大劇場に足を運ぶ。下流区では市場がにぎわいを見せ、また賭博などのささやかな娯楽もあった。 一方で、表からはけして見えない裏もある。 貴族同士の駆け引きは留まるところを知らず、ときには殺し屋が暗躍する。いかに新しい情報を手に入れるかが己の命運を決めるために、貴族は探偵を雇い、探偵は懐を暖かくする。盗みを働き裏でモノを売りさばく者。人の命をもてあそぶ者。真の裏の住人は暗い路地裏にひそみ、いつも獲物を狙っている。 だがそういった裏に関わる者は必ずといっていいほど人知れず消えていった。逆に殺されて、警備隊に捕まって、流行病で、──失敗の代償に、あっけなく。 だから誰かが怪我をしていても、それを気にするものなどいなかった。ましてやその日は気候の暖かいラエルラで珍しく冷え込んだ日で、裏の住人達もあまり路地を出歩いていなかった。いつもならば怪我人など格好の餌食にされただろうが。 切れかけた電灯がチカチカと光り、目がくらむようだった。もう夜は大分更けて、家々から明かりは漏れていない。そのくせ雲が厚く空を覆っていて、星一つ見えなかった。 そんな中を男は走っていた。前に通ったことがある通りを覚束ない足取りで駆け抜ける。走ってる最中にくらりときたのは決して点滅する電灯のせいではなかった。男の耳ははるか後方に聞こえる足音を捕らえている。 彼は揺れる視界の中に路地へと続く小さな道を捉え、その角を曲がった。怪しく光る通りから仄暗い路地に逃げ込む。 右手で壁をつかみながら、ふらつく足を動かしさらに奥へと進む。入り組んだ路地を何度か曲がり、進めば遠く聞こえていた喧騒も聞こえなくなった。 男は壁に背をつけ、息を吐いた。そしてもやのかかる思考をめぐらせる。 どうしてこんなことに。 男はまだ若かった。二十歳を少ししか超えていない。だがそれでも事務所を持ち、相棒と立派に仕事を請け負ってきた。仕事をこなしていく中、自信もついた。しかしそれも今は粉々に砕けている。 自問しながらも男は分かっていた。答えはすでに追っ手によって出されている。それを認めることが出来ないだけで。 彼はそっと胸に右手を当てた。さっきから鈍い痛みが続いている。ここが一番酷い怪我であることははっきりと分かった。ここ以外にもところどころ痛みを感じている。次に酷いのは感覚の無い左手に違いなかった。肩からぶら下げられた左腕はぴくりとも動かない。止血はすでに済ませているが、早くちゃんとした手当てをしたほうがいいだろう。何度も乱闘騒ぎになったのだから無理も無い。幸いなのは相手が銃を使ってきたにも関わらず、銃弾が急所には当たらなかったことぐらいだ。 めまいが酷かった。血は外にはしみてはいなかったが……男は不意に何度か咳き込んだ。こみ上げてくる鉄味の液体を吐き出す。とたんに辺りにその匂いが広がった。 ひゅぅひゅぅと息をしながら、ぼやける視界を宙に向ける。 逃げなければ──でもどこへ? 男の目が細められる。どこも、ない。行く場所など、どこにも。 昨日まで隣にいたはずの、もうすでに懐かしい相棒の幻影がぼやける視界の先で去っていくのが見えた。 絶望という闇が男を飲み込もうとしている。 だれも……誰も。男を救うものはいない。相棒すらも彼を見捨てて去っていった。 だから彼はここにいるのだ。 くっ、と男は唇を弧の形にした。笑みの形の口と細められた目。だがそれは笑みではなく。 歪んだ表情のまま、彼は乾ききったのどから声を発した。 「はは、は」 それは乾いた、だが確かに笑い声だった。時折咳を混ぜながらも、男は笑い続ける。咳をするたびに血もまた吐くこととなったが、そんなことはどうでも良かった。 「はははははははは」 笑うたびに傷つきぼろぼろになった体がきしむ。ついには足で立っていることも出来なくなって、男はずるずると壁に背を預けたまま地面に座った。 「はは……は」 やがて声が途切れた。笑みの形で固定されていた口が閉じられる。男はぼやける視界をきつく閉ざしてうつむいた。 こわばらせていた体から力が抜ける。固く閉ざされていたまぶたの力も抜けた。完全に壁に背を預ける。ずるり、と少しまた下へ落ちた。 鉄の匂いとともに、濃い闇の香りがしていた。それはゆっくりと男を取り巻いていく。 もう、どうでもいい。 思考が永遠の闇に呑まれていく中、男は全てを投げ出したかのようにそう思った。終焉は迫ってきている。近づいてくる足音が聞こえているのだ。追っ手が近づいている。だがそれから逃げる気力も方法も男にはもう無い。 完全な終わりだった。 五感が順番に消えていく。触覚、味覚、視覚、嗅覚……。欠片ほどの思考も、残さず闇に呑まれていく──。 足音が止まったのを残っていた聴覚が捕らえるが、もうそれについて考えることすら出来ない。 その時、水の匂いを鼻が捉えた。消えてしまったはずの嗅覚が戻ってくる。それだけではない。唐突に液体が──水が口に入ってきて、味覚までもが戻ってきた。だがそのことに戸惑っていると水は否応無くのどを通り、のどの敏感な部分をかすっていく。 急激に意識が浮上した。気管のほうにも入ってしまったのかもしれない。男は激しく咳き込む。少し血が混ざったのが自分でもわかった。 ひとしきり咳き込んで、何とか息を吐く。すると目の前に水の入ったカップ──水筒のふたの部分だ──が差し出された。 見れば男よりずっと年下の少年が水を差し出している。さっきの足音はこの子のものだったらしい。差し出された水を男は戸惑いながらも受け取り、今度はゆっくりと傾けてのどへと流し込んだ。喉の渇きが潤され、少し意識がはっきりする。 水を飲み終わって改めて、彼は少年を見た。どうやらさっきの水はこの子が無理やり飲ませたものらしい。おかげで意識は戻ったが、ずいぶん乱暴なことをするものだ。 「大丈夫?」 「……さっきよりはな」 「そっか」 男の言葉に少年がほっとしたように表情を緩めた。男が返したカップを肩から提げている水筒に戻す。 そうしている間に、かすかな足音が響き始めていることに男は気がついた。足音のするほうを見て、その数から今度こそ追っ手だろう、と判断する。 終わったな、と男は思った。意識は戻ったがまだ動けそうに無い。怪我は酷いし、それ以上に動く気力がわいてこなかった。 もう無理だ。そう思ってしまっている。だが。 「子供はさっさと家に帰れ。もう子供が出歩く時間はとっくに過ぎてるぞ」 目の前の少年まで巻き込むことはないと、きつい口調で注意した。 「あんたは?」 「大人の心配を子供はしなくていいんだよ」 「ケガ人の心配はしなきゃダメじゃん」 男の心情を知ってか知らずか、少年は平然と言い返してくる。そして覗き込むように男の左手を見た。 「これ、普通の人だったらほっといたらやばいんじゃない? 他にもケガしてそうだし」 「いいからかまうな」 「あんた……死にたいの? もしかして」 信じられない、とばかりに少年が言った言葉は思いのほか男には効いた。一瞬動揺が体中を駆け巡る。 自分は、死にたいのか? だがそれもすぐに収まって、すとん、と動揺は心の中へ落ちていった。言葉にされて始めて自分の状態を受け入れる。 相棒は消えた。もう、何も無い。終わりだ、と繰り返し思っていた。もうたくさんだった。終わりなんじゃない。もう、終わりにしたかったのだ。こんな状況で最期まで抗うよりは安らかに。安らかに、眠りたい。 足音が少しずつ迫ってきている。追っ手の足音だ。だがすでにその足音は男の手を捕らえているのだ。捕まえられて絡めとられて、もう逃げられない。 「──そうだな」 気づけば声に出していた。 「俺は、全部終わりにしたいんだ」 終わり、に。 ぐっ、と唐突に肩をつかまれて、息を呑んだ。かすかな痛みが走り、男は顔をゆがめる。反射的につかんだ相手を見た。しかし喉まででかかった非難の言葉はそのままそこで制止した。 少年が泣きそうな、それでいて怒ったような目で男をにらんでいた。 「立てよ。立てよ!! あきらめんなよ。そう簡単にあきらめんな!!!」 悲鳴にも似た叫び。それがその年の少年には酷く不釣合いで、男は呆然と彼を見つめた。 叫び終わって、呆然とした男の顔を見て、少年は吊り上げた目じりを下げた。男と目を合わせたまま、悲しげにつぶやく。 「もう、ダメなのか……?」 嘆き。悔しさ。失望。……闇を晴らす光。否、闇の中でさえも輝く光だ。それが交互に少年の青い瞳の中へ映りこんだような気がした。ぞくりと背筋に何かが走る。心を捉え、四肢を捕らえた闇が晴れていく。 このまま諦めてはいけないと思った。 少年にこんな目をさせたままではいけないと、思った。 闇が、晴れる。 ぽかんと少年を見ていた男が顔つきを変えた。視線が定まらなかった瞳に意志の光が入る。男は歯を食いしばり、壁に右手をついて震える足で立ち上がった。立ち上がってみると少年の背は男の胸までも無く、今までの目線からはずいぶんと小さくなったように感じた。 目を丸くして見上げてくる少年を見て、うなずく。少年が表情を明るくした。だがそれも一瞬で、覚悟を決めたような顔に変わる。 「こっち」 少年が男を先導し、歩き出した。大勢の足音が近づく中、二人はゆっくりと、確実にその場を後にした。 +++ 甲高い笑い声が聞こえる。意識が眠りの表層まで戻ってきて、男はまずそう思った。ともすれば再び眠りに落ちそうになる意識をどうにか目覚めさせようと声に聴覚を集中する。 男は次にここはどこだったか、と眠りに落ちる前の記憶を思い出そうとした。だがなかなか思い出せない。そこで重いまぶたを何とか押し上げて、目を覚ました。 貧血で視界がぼやけそうになるが、なんとか気力で起き上がる。といってもあくまでそっと、上体を起こした。それだけで鈍い痛みが全身に──特に腹部と左腕に──駆けぬけた。思わず息を詰めるほどの痛みだったが、それでも記憶の中での痛みよりは大分和らいでいる。左手に意識を向ければ、痛みはあるが動かすことは出来た。白い包帯が腕と胸に巻かれていることからも、的確な処置がなされているらしい。 体の調子を確かめたあと、男は辺りを見渡した。ここはどこかの部屋のようだ。かけられていた布団は清潔で真新しい。窓と戸が一つずつあって、書き物をする机も一つある。よく手入れされている、いい部屋だった。 そこまで確認したところで、ようやくおぼろげながらも眠りにつくまえの記憶が戻ってきた。 確か、追っ手から逃げている途中に少年と出会ったのだ。青い目で十ニ三歳くらいの。その少年に連れられて自分は逃げた。追っ手を何とか振り切って、どこかの建物に入ったところで記憶が途切れている。そこで意識を失ったらしい。 うまく考えがまとまらず、思い出すだけでかなりの時間がかかってしまった。その間にもまぶたはすぐに視界を覆おうとするし、周りに霧がかかっているようだ。 コンコン、とかすかな音がして、ドアが開く。緩慢な動作でそちらを見るとドアを開けて人のよさそうな顔の老齢の女性が立っていた。手には水の入った洗面器があり、白と黒の服を着ている──確かこれはシスターの服だったはずだ、と男はぼんやり思った。 老女は男に気づいて緩やかに笑みを浮かべた。 「気がついたんですね」 咄嗟にどう返事をすればいいかが思いつかず、男はただ老女──シスターを見る。 ぼんやりしている男に近づいて、彼の額にシスターは手を当てた。 「まだ熱がありますね。無理せず横になってください」 やんわりと言い、彼女は彼の体を気遣いながら再びベッドに横たわらせる。その額に水でぬらされた布が置かれた。冷たくて気持ちが良く、思わず目を細めた。 そのまま眠りへといざなわれていく意識を何とかその淵でとどめて、口を動かす。これだけは聞かなければと無理やり言葉を吐き出した。 「ここ、は」 「教会です。貴方は五日前の晩に連れられてきて、それからずっと眠っていたんですよ」 「きょうかい……」 老女の言葉を反復する。教会と聞いて心のつかえが取れた気がした。ここなら安全だ、と何の根拠も無くそう思う。 もっと聞きたいことはあったが、自然にまぶたが下りてくる。 「もう少し、寝ていてください」 柔らかい老女の声音に吸い込まれるかのように、男は眠りに落ちていた。 |