序・取り返しのつかないコト


 緩やかに水は流れていく。かなりにごったその水は元から緑色だったが、今やそこに鮮明な赤色が混ざり始めていた。

 裕福な人も貧しい人も、とにかく沢山の人が生活している都市ラエルラ。毎日が車の騒音と人々のざわめきでいっぱいのラエルラだが、ここだけはいつも静かだった。
 ここは下水道。都市ラエルラの地下にある。

 その下水道で一人の青年がその場に立ち尽くしていた。顔は青ざめ、全身が小刻みに震えている。
「ど、どうしよ…」
 ぎゅっと手に握った拳銃に力をこめる。目線の先には一人の少年が横たわっていた。コートのフードを目深にかぶっているため顔立ちは見えないが、左胸からおびただしい血が流れ、それが水を赤く染める。
(もしかしてぼく、人殺しちゃった…?)
 これだけ血が出ていて、身動き一つしない。気のせいかもしれないが、息もしていないように見える。
 やっぱり警察に、あ、でもそしたらぼく捕まるし。逃げ……いやいやいや!
 青年─ティーディードは激しく頭を振った。浮かんだ邪念を振り払い、倒れている少年を見る。
 まず自分は何をするべきだろう。
 そう考えて、もしかしたら少年はまだ生きているかも知れないと思い立った。
(い、生きてるか、確かめなきゃ)
 どうか生きてますように。死んでませんように。
 天に願いながら、脈を確かめようと地面に力なく落とされている少年の手に手を伸ばす。
 と、横から突然手が現れて伸ばした手を鷲づかんだ。
「わっ!?」
 思わず声を上げ、その場から飛びのく。背後の壁に張り付いた。心臓が早鐘を鳴らしている。
 さっきまで立っていた場所を見ると、いつの間にか青年が立っていた。手は青年のものだったらしい。
 ティーディードはほっと息を吐く。
 すると青年がこちらを見た。鋭く睨まれる。現れた青年は帽子を深くかぶっており、眼自体は見えない。だが確かににらまれたように感じ、ティーディードは吐いた息をそのまま止める。
「お前がやったのか」
 青年が少年を示しながら問う。
 その問いに対し、ティーディードは目を宙に泳がせた。
 やっていない、と言ったら嘘になる。しかし、やったとは言えない。
 それを肯定ととったのか、青年は続けて言った。
「一般市民か。なんでここにいる? お前見たいな奴がくるところじゃないだろ?」
「そ、それは……仕事首になって、家賃払えなくて家からも追い出されて行くとこなくて…。夜、外で寝るのは危険だから、とりあえず下水道なら人いないし、風ぐらいなら防げるかと思って……」
 縮こまりながらティーディードが説明する。自分の状況はわかっているつもりだったが、改めて言うと悲しくなってきた。目じりに涙が溜まり始める。
「で、誰かとあったら怖いから、拳銃握ってのこのこ来たらコイツと鉢合わせ。驚いた拍子に撃ってしまったと」
 ティーディードは勢い良く首を縦に振った。青年の言ったとおり、そのままのことがさっき起こったのだ。
 自分でも情けなくなる。年下の相手に驚いて、しかもその相手を拳銃で──…撃ち殺してしまった。少年はぐったりして動きそうにないし、血が大量に流れ出ている。死んでしまったことは確実だろう。
 馬鹿だ。自分の臆病のせいで人を一人殺してしまうなんて。
 情けなくて涙が出るとはこのことだ。
 ティーディードは本当に潤んできた目をこすった。ここで泣くのはあまりに失礼だと涙を抑えようとするが、ぬぐってもぬぐっても涙が出てくる。
 しばらくグズグズやっていると、青年が長いため息を吐いた。
「殺そうと思ったわけじゃないな?」
 あきれたように尋ねられて、ティーディードはこくりとうなずく。その間も涙をぬぐっている。
 青年は再度ため息を吐き、倒れている少年の側で片膝をついた。血を気にしないという風にそのまま少年の手首に手を当てたり、血の出ている場所に触れたりする。
 やがて青年は少年を持ち上げると肩を貸す形で歩き出した。ほとんど引きずるような形であったものの。
 それをティーディードが黙ってみていると、ふと青年が立ち止まる。
 ぼそぼそと音にもならないような声が聞こえた気がしたかと思えば、青年が振り返った。
 ティーディードは思わず縮み上がる。
 何か、そう罵られるかと思ったのだ。罵られて当たり前のことをティーディードはしたと思っている。幾ら人殺しが珍しくないといっても、殺していいということにはならないのだから。
 畏まって待っていると、青年が言った。
「着いて来い」
 拍子抜けするその言葉に、ティーディードは目を瞬いた。
「え」
「早くしろ」
 驚いている間にも青年は先へ行ってしまう。青年の背中が遠くなったところでティーディードは我に帰った。
 自分が殺してしまった少年の知り合いらしい人物が着いて来いと言っているのだ。自分は着いて行かなければいけない。
 義務のように思い、ディーディードは青年を追いかけた。