もうこの関係は戻らないと、そう分かっていた。覚悟していた。
身分を越えた友情は、あのときに潰えたのだと。
【結】
ジュード=バーナーズが──バーナーズ伯爵が娘の奇行に気付いたときには、もう後戻りは不可能になっていた。否、兆候はあったのだ。婚約に前向きであった娘、フローラが婚約者探しのパーティ当日に薄気味悪い家庭教師を連れて、声だかに婚約を行わないことを伯爵に告げたのもその一つである。振り返れば振り返るほど、兆候ははっきりと現れていることに気付き、同時に伯爵は絶望する。
その時は夜であった。仕事で出かけ、夜遅くに帰ってきてまた書斎にこもって書類へと目を通す。伯爵が作業に熱中していると、静かに書斎の扉が開かれた。
「お父様。リュー様が来てくださりましたわ〜」
無断で書斎の中へと入ってきて、唐突に話しかけてきたフローラは今まで見た中で一番幸せそうな微笑を浮かべており、また同時に瞳に漆黒の闇を帯びていた。傍らに立つのはフードを目深にかぶった家庭教師だ。
娘に感じた恐怖を誤魔化して、伯爵はかぶりを振る。
「フローラ、私はリューを呼んでいない」
「だから、私が呼びましたの〜」
「……フローラが?」
「ええ。お父様はお忙しそうでしたから、気付かなかったみたいですけど〜数日前からうちに泊まっていましたわ〜」
どういうことだ? と伯爵が問いかける間も無く、家庭教師が扉の向こうの「誰か」の手を引いた。虚ろな瞳に、無表情の顔──見覚えのない表情であったが、それは確かに伯爵の友だった。
「な……」
言葉を失った伯爵に、フローラはその名のごとく、花のように微笑む。
「これで、リュー様とはずーっと一緒ですわ〜」
「どういうことだ!? リューに何をしたフローラ!?」
伯爵は思わず声を荒げて、娘の肩をつかんだ。娘の眉が下がる。
「どういうこと? 私はただ、リュー様がずっと私といてくださるようにしただけですわ〜。リュー様がずっと一緒に居てくだされば、私は寂しくありませんもの〜」
「リューの意思を無視しているだろう!?」
「無視なんてしてませんわ〜。リュー様は私と一緒に居てくださる、そうおっしゃいましたの〜」
頬に手を当てて、フローラは頬を薔薇色に染めた。その瞳に嘘を見つけられず、伯爵は愕然とする。何も言わない──いえないのかもしれない──友を見つめたのちに、目を伏せた。
「こんなのは犯罪だ──」
「娘にそういう資格は、お前にはない」
伯爵が吐き捨てるように言った言葉は、冷たくさえぎられた。そこで初めて伯爵はまじまじとさえぎった声の主──家庭教師の男を見つめる。
「娘を注意する資格は、お前にはない」
繰り返し、男は言った。
「娘の寂しさを、お前は知っていた。知っていて何もしなかった。気付いていたのではないのか? 娘の危うさに。お前の娘は愛情を求めて──好きな男を独り占めすることを求めて、ここまで狂った。娘を放置して、大丈夫だと高をくくっていたお前は、娘に注意する資格などない」
責めるようにではない。ただ淡々と男は言葉を連ねる。
「お前は幸せを、娘に与えられなかった」
伯爵は男を見ていられなくなって、目をそらした。男の言葉は、妙に心に突き刺さり、残る。
「──今、ようやく娘は幸せを手に入れた。その幸せをお前は奪うつもりか? 娘を犯罪者にするつもりか? 世間体を気にして、誠実な良い親を演じるつもりか?」
言葉から逃げるようにきつく目を閉じた。男の姿も、操られた友の姿も、狂った娘の姿も見たくなかった。
「さあ、どうする?」
男が問いかけるような声を発し、その場に静寂が落ちる。長い長い時間だった。今まで生きてきた一生よりも長い時間、伯爵は考え続けた。
闇の中に放り出され、どちらに行けばよいのかもわからない。伯爵として、父として、友として、どの立場を選んでも、何かを失う気がした。
「……お父様? 具合でも悪いのですか〜?」
フローラが心配そうに声を掛けてくる。薄っすらと瞼を上げると、彼女は伯爵を覗き込むようにしていた。気遣いの言葉に昔の記憶が蘇る。
「いや、大丈夫だよ。フローラ」
昔と今が重なる。気付けば、彼女がまだ幼かった頃のようにフローラの頭を撫でていた。撫でられたフローラが──狂気の笑みではなく──幸せそうに、幼い頃のままの笑顔を浮かべる。
──ああ、こんなに簡単なことすらも、私はしていなかったのか。
闇の中に光が見えた。暖かいとはいえない光だ。鋭く刺すような、ともすれば飲み込まれそうになる光。その光へ向かえば、他のものを切り捨てなければならず、切り捨てたものは二度と戻らないだろう。
それでも。
「なんでもない。なんでもないんだ。フローラ」
この笑顔を、守りたい。
他の全てを、かけがえのない友すら、失ったとしても。
だが気付いていた。全てを覆い隠すことなど出来ない。いつか事実は表へと引きずり出され、罪には罰が課される。
そしてそれは、最も望まない形で実現した。
──フローラが倒れていた。最愛の娘が、倒れていた。
操られたリューを芸人として開いたパーティのあと、全ての貴族を帰してから、伯爵は足早に二階へと上がった。物音がしていたためだ。それを隠して、パーティの途中に居なくなったフローラのことも隠して、伯爵はようやくパーティを終わらせたところだった。
いなくなったフローラと、リュー。降りてこない二人。物音。胸騒ぎがする。
階段を登りきれば案の定戦闘のあとがあり、フローラがその中央付近に倒れていた。
「ああぁぁぁ……」
伯爵はがっくりと膝を折り、娘の側にしゃがみこむ。
フローラの首元から赤い血が噴出していた。その血を止めるように伯爵は娘の首元に手を触れる。ぬるりとした感触が手に伝わり、死んでいることが分かっても、その手を話せなかった。
「旦那様、衛兵が──ひいっ!?」
「……ああ……。通しなさい」
「は、はいっ」
どれくらい経っただろう。やがて執事が階段を登ってやってきて、その場の光景に悲鳴を上げた。衛兵が来たという知らせにうなずき、伯爵は立ち上がる。娘の喉を押さえていた手は赤い。彼は動かないフローラを静かに見つめた。
「……もう、お休み。フローラ」
娘を殺した相手を、憎む気持ちは不思議と起きなかった。ただ「終わったのだ」という気持ちが強かった。
+++
衛兵や盗賊ギルドのメンバー、城からの使者に事情聴取を受ける。同時にフローラの最後のことを尋ねると、リューを助けるために冒険者が動いていたそうだ。
フローラのしていたことを全て自白し、伯爵自身が隠していたことも話した。使用人に致死量の毒を持ったこと、拉致監禁したこと、全てを黙っていたこと。──どこかに消えた家庭教師のこと。
伯爵は、どんな処罰も受けるつもりだった。
だが妻が、アルマがフローラの亡骸にすがりついて号泣するとは伯爵も想像もしていなかった。自らを美しく見せるのが一番であったはずの妻が化粧もせず髪を振り散らして、フローラを返せと殺した相手に向けて叫ぶ。そのうちに八方手を尽くしてフローラを蘇生までさせてみせた。
そんな妻を支えながら、伯爵はつい、フローラが死ぬ前にここまでフローラを思ってくれれば、と思わずにはいられなかった。自分ももっとフローラを思えていれば、と。
フローラは蘇生されたが、完全に復調したわけではない。生き返ったフローラはぬけがらのようで、言葉も喋らなければ自分で動きもしなかった。ただ、ぼんやりと虚空を見つめている。蘇生のショックに完全には耐え切れなかったためだという。動きといえばアルマが世話を焼くと、薄っすらと笑みのようなものが口元に浮かぶくらいだ。それでもアルマは献身的に世話を焼いている。
処罰は、追って告げると知らされた。親子三人で領地に戻り、処罰が下されるまで待つことにした。荷物もまとめなくてはならない。
爵位は剥奪されるだろう。それでもいい。それぐらいの覚悟はしていた。
犠牲になった使用人達の身内に恨まれるかもしれない。それでもいい。それぐらいの覚悟はしていた。
牢に入ることにもなるだろう。処刑される可能性もある。それでも構わない。
いつか終わりになる覚悟は、していたのだ。
見捨てた友が恨みを持ってやってくるかもしれない。それでもいい。それぐらいの覚悟は──していた。
「ジュード」
しばしの時間が過ぎて、リューが領地の屋敷へとやってきた。執事に通すように言って、部屋で待つ。じきに扉が開いた。リューが伯爵の名を呼ぶ。伯爵はゆっくりと振り向いた。
「……リュー」
リューはその場に立っていた。髪を下ろしており、簡素な格好をしている。今まで芸人として屋敷に来たときとは全く違う格好だ。
「やっほー♪ 何か新鮮じゃない? この格好でジュードに会うのは初めてだからかなぁ」
「……ああ、新鮮だ」
「フローラ、どんな感じ?」
ニッ、と笑みを浮かべたリューは唐突に尋ねてくる。伯爵はリューから目線をそらした。
「ほとんどぼんやりとしている。私やアルマが近づくと笑う……ような気がする」
「そっか」
簡潔にリューが頷く。そのままリューは伯爵の隣を通り過ぎて、窓際へと移動した。窓から外の景色を眺める。短く息を吸い込んで、伯爵はその背中に向けて、言葉を発した。
「……すまなかった」
リューは、何も言わない。いやな沈黙ではない。ただ、伯爵が全ての言葉を吐き出すのを待っているかのようだった。
「すまなかった。娘の幸せのために、私はリューを見捨てた。リューが苦しんでいるのを見てみぬ振りをした。すまなかった」
頭を下げる。何度謝っても足りないような気がして、何度も何度も、繰り返し頭を下げる。
やがて伯爵の動きが止まるころ、リューが振り向いた。
「いいよ。もう、いい。過ぎたことだものね」
リューの言葉に伯爵は顔を上げた。リューはいつもどおりの笑み浮かべている。だが伯爵は──その笑みに距離を感じ、口をつぐむ。
「だけど、もう多分君の仕事はしない」
微笑を浮かべたままリューはすっぱりと言った。胃がキリキリと痛む。覚悟はしていたはずだ。それでも、胃が痛む。
「……ああ」
「ここに来るのも怖かったしね。芸人仲間に表までついてきてもらっても、怖かった。これじゃあ、芸なんてできない。だから君のところで芸はできない」
リューが右手を胸辺りまで上げる。そのては小刻みに震えていた。それを見て、伯爵は苦い表情を浮かべる。
「わかった」
「まぁ、また機会があれば会えるっしょ」
「え?」
あっさりとした口調で言われて、伯爵は思わずリューを見返した。
リューはなにやら困った様子で頬をかく。
「んー、もし、君がここの場所から出ることになったら、会えるかもしれないって言ってるんだけど?」
ここの場所からでることになったら。それはつまり──。
「会える? どうして……」
「だって、ぼくは君が怖いわけじゃないからね」
「違う、そうじゃない」
伯爵はかぶりを降った。
「何で……なんでそうも許せる? 私は、私は君を殺しても構わないと……」
伯爵の口から、言葉がすべり出た。だが語尾は消える。
「何で、って? だって、ぼく君のこと嫌いになってないもの」
当たり前のように言って、リューはくすりと笑みをこぼした。
「だから、またね? 君にとってはまた、じゃないほうが幸せかもしれないけど」
静かにリューは片手を差し出す。それを伯爵──ジュードは見つめて、ゆっくりと友の手を握り返した。
「……ああ、また」