懐古すれども


 懐かしい人を見かけ、クルレイは足を止めた。人の壁の向こうに彼らは立っている。彼らはこちらに気づく様子もなく、クルレイが気づいたのも偶然のようなもので。
 だから、つい立ち止まってじっと見ていた。
「クルレイ?」
 どうした? と、隣を歩いていたピスタチオがクルレイに尋ねてくる。相棒の見ているものを見ようと、クルレイよりずっと低い背を伸ばした。が、見えなかったのか再びクルレイを見る。
「何かあったの?」
「……」
 ピスタチオの問いには答えず、クルレイは目を懐かしそうに細めてから、踵を返した。
「なぁ、何かあったんだろ?」
「何も」
「ウソだ。何かあったに決まってる」
 ピスタチオはきっぱりと言い切る。やけに気にする彼を、クルレイは振り返った。遠くにはまだ彼らが居る。辛うじてそれがわかる。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、すっごいうれしそうな顔してたし」
「……俺が?」
「そー」
 こっくりとうなずいたピスタチオは何があったのか、とまたクルレイに尋ねてきた。
 それに答えを返したのは、遠くにいる彼らをもう少し、見ていたかったからなのかもしれない。彼らには気づかれないような位置で、もう少し。
「妹が、居た」
「へ?」
「兄と、多分兄の嫁さんと、その子供と一緒にな」
「……クルレイの、兄弟?」
「そうだ」
 彼らへと目を向ける。果物屋の前で、妹と兄とその家族は買い物をしているようだった。出てくるときはまだ幼かった妹も、大分大人の女になっている。昔は無造作に流していた黒い髪を、右肩辺りで一つに結い、丈の長いスカートをはいていた。
 兄もクルレイの記憶上ではまだ結婚していなかったはずだ。それがいまや歩けて話せるぐらいの子の父親である。彼と仲むつまじくしている女性には見覚えがあって、兄が家に連れてきたことがあるのだろう。四人とも微笑みながら言葉を交わし、果物を選んでいる。
 幸せそうだ。
「話しかければ?」
 しばし黙ったままだったピスタチオが言った。その言葉にクルレイは彼を見る。
「買い物はあとでもできるしさ。荷物、おれ持ってるし。行ってこいよ」
 ピスタチオが片手を差し出す。もう一方の手には布の袋が提げられていて、中には医薬品が入っている。
 クルレイも同じ袋を二つ持っていた。こちらの中身は当面の食料に、ちょっと人には言えない、仕事で使う品々である。
 差し出された手を、クルレイはしばしの間見たが、やがて口の端を上げた。
「別にいい。帰ろう」
「え、なん──」
「お前がこれ全部持つのは無理だ」
「そんなことない!」
 クルレイがさらりと言った言葉を、ピスタチオが激しく否定する。自尊心が傷ついたのか、むっと不機嫌な顔をした。
 それを見ながら笑い、クルレイがまた歩き出す。彼らとは逆の方向へ。
 置いていかれかけたピスタチオはそれを慌てて追いかけた。横に並んで進んでいく。
「ホントにいいの?」
「いいんだ」
「家族って大切なんじゃないの? 普通はさ」
 おれだって大切に思ってるし、とピスタチオが続けた。まるでそれが普通ではないように。
 元々ピスタチオと出会った場所は教会で、クルレイは何となくその意味がわかっていた。詳しくはいずれ話してくれるだろうと思いながら、うなずく。
「ああ」
「なら、話したいんじゃないの?」
「それはいいんだ」
「どうして?」
「どうしても、だ」
 ピスタチオは納得のいかない様子で、しばらく考え込んでいた。
 市場からかなり離れた頃、クルレイはゆっくりと口を開く。
「いつかは会う。それが今じゃないだけだ」

 家を出ると言ったとき、皆が皆心配そうな顔をしていた。大家族で家計は常に苦しく、食い扶持が一人減ればその分楽になるだろうに、それでも皆は心配そうな顔をする。
「別に無理に出なくてもいいのよ」
「お前一人ぐらい俺が何とかしてやるぞ」
 口々に止めたのは母親と一番上の兄だ。父親はただ黙って、めったに手をつけない──金がかかるからだ──タバコを吸っていた。家の外で。
 弟や妹からは「お兄ちゃん行っちゃうの?」という声がかけられて、泣き出した奴もいた。
 いつもは聞き分けのいい、最後から二番目の妹もクルレイの服をつかんで放さなかった。
「オレはオレの力で、生きてゆきたいんだ」
 そんなことを言って、散々説得して、クルレイはようやく家を出る。
 全員が、ドアや窓から顔を出して、はたまた家の外に出て。
 行ってらっしゃい。いつでも帰っておいで。まってるから。行ってらっしゃい、行ってらっしゃい……。沢山の言葉に送られた。
 それから一度も、クルレイはその家に行っていない。仕事をするのに手一杯であったり、夢中であったり、絶望したり、色々あって、行っていない。
 “帰る”ことをしたくなかった。自分が帰る場所を他に見つけたかった。
 自分の居場所を見つけて、自身を持って、顔を出したい。
 だから、今はまだ早い。

「そうなの?」
「そうなんだ」
 クルレイの言葉に、ピスタチオはようやく、一応は納得したようにうなずいた。
 そして二人は帰っていく。まだ真新しい、我が家へと。