吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
 ──夏目漱石『吾輩は猫である』より


  自信家は胸を張る


 我輩は猫である──と、このような冒頭で初めれば、誰もがかの有名作家が書いた小説を思い浮かべることだろう。だが実際に我輩も猫であるのだから、仕方があるまい。我輩は昭和から続いているこの駄菓子屋で飼われている飼い猫である。名を「まる」という。
 名は体をあらわす、というが我輩にとっては反対だ。体は丸とも似ても似つかぬラインであるし、擬人化をすれば現在は立派なロマンスグレーの紳士である。おっと、少し現在の若者の風潮を混ぜてしまったか。知らないものは意味など聞かず、知らないままでいてよい。
 今、我輩は店の定位置に足を丸めて座っている。ときたま奥の部屋でその例の本を開いて読んでいるが、実際には冒頭三行で寝てしまって最後まで読んだことは一度も無い。我輩は猫であるのだから仕方があるまい。
 ともあれ、我輩が店の定位置に座っていると、駄菓子を買いに来た子がおじさあん、などと我輩の主人である駄菓子屋の店主に話しかけることはいつものことだ。そのうちに子らは我輩の周りを取り囲み、我輩をもみくちゃにし始める。
 ……正直、いい加減にしろ。
 おっと、こほん、失礼。
 我輩がそのような感じに子らの攻撃──攻撃と呼ぶほうがすわりが良い──にうんざりしていると、不意に言葉が降ってきた。
「こらーっ。ほどほどにしないと、猫さんに嫌われちゃうよ?」
 茶目っ気交じりの耳障りの良い声でそう言いながら、白く細い手で穏やかに我輩に群がる子らの山を書き分ける彼女──女神と呼んでも差支えがないほどに、彼女はすばらしいニンゲンである。彼女の一声に、子らが素早く我輩から離れた。
「うんうん。みんないい子だねー」
「だって、ねこさんにきらわれるの、いやだもん」
 口々に子らが言う。その言葉に彼女は口元をにっこりさせると、子らの頭を撫でた。そのことに子らは嬉しそうに笑いあい、駄菓子を片手に道を駆けていく。またどこかで遊ぶのであろう。
 それを見送ったのちに、彼女は我輩の前で腰をかがめた。我輩の頭を撫でてくる。ううむ……心地よい。
「まるは引っかかない良い子だねー」
 子、というには我輩は年を取っているのだが──彼女の笑顔にそんな思いもそがれた。ゴロゴロと喉を鳴らす。
「うんうん。この、可愛いやつめー」
 甲高い声を上げて、彼女は我輩の喉を撫でる。ああ、良い……。
 しばらくそのまま撫でられてうっとりとしていたが、やがて彼女は我輩から離れて駄菓子を見始めた。さりげなく目で彼女の姿を追う。彼女は学校帰りなのか、紺色のセーラー服を着て同じく紺のスカートが動くたびに揺れる。スカートの裾は膝上だ。ううむ。もう少し長いほうが我輩としては安心できるのだが……。
 短い黒の髪は首元で二つに結んでいる。よく駄菓子屋の前を通っていくほかの同年代の女子とは違い、きっちりと髪色は真っ黒だ。右肩に四角いスクールバックを下げて、楽しそうに駄菓子を見ている。
「じゃ、おじさん。これとこれとこれ」
「まいどありー」
 三つほど駄菓子を買って、店を出て行く。彼女は常連だ。いつも学校帰りにやってきて、駄菓子を数個買って行く。そうして、我輩はいつも去り行く彼女の背中を見送るのだ。
 これが我輩の日課である。

+++

 我輩はよく、彼女の学校へも行く。午前中のパトロールの一貫だ。閉まっている門の合間から軽々と中へ入り込み、ゆっくりと校内を闊歩する。授業中の学校というのは静かなものだ。グラウンドでニンゲンが体育をしているのを塀の上から見学する。
 今日はなにやら障害物を次々と飛び越えながら走っていた。かなり倒しているものもいれば、軽々と飛んでいくものもおり、そもそも飛べないものもいる。まどろっこしいものだ。我輩ならばもっと簡単に飛び越えられるというのに。
 だが見ている中で一際早く軽々と飛んでいる男子が居た。ふむ。あのものならば我輩とも対等に勝負ができるやもしれぬ。
 グラウンドで体育を見たあとは、木陰へと移動して寝そべる。流石に校舎の中へ入ることはできぬためである。前に一度入ったときには追い出された。あれは、惨めであった。
 我輩が寝そべってのんびりとしていると、鐘がなった。じきに弁当を食べに外へ出てきた女子や男子らが我輩に気付く。弁当の裾分けに預かって、頭をなでさせてやる。高校生は嫌いではない。もっとも、馬鹿な振る舞いをするものがいないわけではなく──そういうものからはすぐに逃げることにしている。若い頃ならば容赦なく爪をふるったのだろうが、我輩ももう年である。年齢相応の落ち着きというものを身に着けなければなるまい……。
「お、猫だ猫」
「ヒゲ結んでやろうぜー」
 …………………………………………。

 ガリッ!

「ぎゃー!?」
 かっとなってやった。後悔はしていない。我輩もまだまだ若いということであろう。うむ。
 抱き上げていた男子に一発拳を食らわせ、近づいてきた男子の手を鋭い爪で引っかいたのちに、緩んだ腕から軽々と地面へ降り立った。しなやかな足のばねを利用して、その場を離れる。
 まったく、酷いことをしようとするものもいたものだ。校舎の裏、日の当らぬ場所まで移動して、我輩は手を舐めた。身づくろいをして、小さな倉庫へと近づく。積みあがる機材を足場に、倉庫の屋根へと飛び上がった。そこには丁度日が当っており、その部分に寝転がる。
 良い陽気だ……。
 ふと、ニンゲンの気配に目がさめた。大きく背筋を伸ばし、耳の裏をかく。空を見あがれば大分日が傾いていた。どうやら寝すぎてしまったようである。
 我輩はひょいと一足飛びに地面へと降り立った。なにやら倉庫から器具を運んでいたらしい男子が思わず声を上げるが、構わずに走り出す。急がなくては彼女が店に来てしまうではないか。
 塀に飛び乗り、校内から出る。一度道路に降り立ったのちに、勢いを上げて次に民家の塀へと飛び乗った。塀の上を急ぎ足で進もうとして──足を止める。
 む。
 見れば彼女が同年代の男子とともに道を歩いている。この方向は我輩の店があるほうだが……わざとゆっくりと彼女の横を通り過ぎた。しかし、彼女は相手の男子と話してばかりで我輩に気付く様子は無い。男子は詰襟をしっかりとしめた、スポーツがりの──ああ! よく見れば午前中グラウンドで見かけたなかなか、見どころのある男子ではないか。
 二人は中むつまじそうに話をしている。なんだ! なんだというのだこれは!!
 なにやら我輩はもやもやとした気持ちを抱えたまま彼女とヤツの隣を通り過ぎ、駄菓子屋へと急ぐ。最後はほぼ全速力で駆け抜け、いつもの定位置に戻った。
「今日は遅かったんだなぁ」
 珍しそうに主人が声を掛けてくるが、我輩は息を整えるのに忙しい。努力のかいあってか、彼女とヤツが店の前を通り過ぎるころには既にいつもの調子に戻っていた。
 彼女は頬を仄かに赤く染めて──赤く染めてだと!?──ヤツにこの店のことを話している。ヤツはぎこちなく頷きつつ、彼女の言葉を聞いていた。話しながら駄菓子を選んでいる。その内に我輩の話になって、ヤツは我輩に手を伸ばしてきて……そっぽを向いてやった。
「あれ? いつもはひとなつっこいんだけど……おかしいなぁ? ご機嫌斜め?」
 彼女が腰をかがめて我輩の頭を撫でる。ヤツもその隣に困り顔で並ぶ。
 腹立たしい。
 いつもは嬉しい彼女の行動も、今は少しも嬉しくなかった。何故だ。何故……。
「それに、これとこれとこれくださいー」
「まいどーどーも」
 我輩がそんなことを考えているうちに、彼女とヤツは駄菓子を選び、主人に手渡した。いつもより量の多い駄菓子を、主人はなれた手つきで袋に入れていく。袋と入れ替えに彼女から代金を受け取ろうとして、ヤツがそれをさえぎった。
「俺が払う」
 どこか照れた様子で──照れた様子で?──言って、ヤツは代金を主人に手渡す。
「うん。丁度おあずかりします。まいどありー」
 袋を受け取ってから、ヤツは彼女に笑いかけた。それに彼女も笑い返し、駄菓子屋を出て行く。
 我輩は二人を見送りたくなかった。見送らなければよかったと心底思った。だが、見てしまったものはもう取り返しがつかない。
 ヤツと彼女はどちらからとでもなく、ためらうように相手の手に触れて、やがて手をつないだ。我輩は見て入られなくなって、商品の合間を通り抜け、主人の隣へと移動する。
「いやー、若いねぇ」
 遠目で彼女とヤツを見ていたらしい主人がずれた眼鏡を押し上げながら微笑む。
「若いっていいねぇ」
 同じような内容の言葉を言って、満足そうに頷いた。
 その意味は我輩にもわかっている。これでも我輩は読書に余念がないのだ。そして賢い。ニンゲンの感情ぐらいわかっている。

 あれは、恋だ。

 若いのが何だ。我輩だってまだまだ若い。ニンゲンに治したらロマンスグレーかもしれないが、我輩はまだまだ若い。
 まだ若いんだ。彼女とだって釣りあいが取れるはずだ。猫とニンゲンだけれど、それでもヤツと彼女よりずっと釣り合いが取れる。
 告白したのがヤツのほうが早かっただけだ。我輩は出遅れただけだ。我輩が告白すれば、彼女はきっと答えてくれる。

 これも、恋だ。

 我輩は奥へと駆け抜けた。生憎我輩と彼女の間には同じ言語を喋れないという決定的なハンデが横たわって邪魔をしている。だがしかし、そんなことで諦める我輩ではない。
 主人が放りだしていた紙をつかむ。勢いあまって爪が引き裂いたが、問題はないだろう。多少だ。次にペンを探す。細長い棒状のものがペンだ。だが、見つけたものを紙にこすり付けても何も写らない。違うこれはペンではない。
 ようやく見つけたのは、木の匂いがする棒状のもの。それを口でくわえ、紙にこすり付ける。黒く線が入った。これだ。これならば書くことが出来る。
 我輩はペンを持った。ペンを持って、紙に思いを書き付けることにした。時折本を開いて字を確認する。この字というものは曲者で、なかなか苦労はするが、書くことはできたと思う。簡潔な、良い言葉だ。だが我輩の気持ちを全て含んでいる。

 ──すき。

 これ以上、これ以外に書くことなど必要がない。
 あとは次に彼女に出会ったときに手渡すだけである。



 我輩は猫である。我輩は恋をしている。この先どうなるのかとんと見当がつかぬ。
 だが、胸を張り手の下の紙を押さえ、胸を張って、彼女が来るのを待っている。