黒い服を纏い、顔を伏せている人々を、僕はただ目の中に納める。
 突きつけられた現実は両肩に重くのしかかっているようだった。
 人々の列が行き着く先は、少女のもと。生前の笑顔が額に入っている、少女のもとだ。
 彼女は僕の妹で、まだ五歳だった。

 僕が幼稚園に妹を迎えに行った帰り道。
 ここいらじゃあ珍しい雪が降ったあの日。
 僕は妹を失った。


  ゆき


「おにいちゃん、ゆき!」
「雪だな」
 空から降り続く白いものに、妹は大はしゃぎだった。
 地面もすでに白く覆われている。僕ですらこんなに積もったところを見たことが無い。それぐらいの大雪だった。
 目を輝かせ、妹は雪と戯れる。
 僕はそれを見ながら、寒さで凍りついた手に息を吐きかけた。
「すごいね、まっしろだね」
 先を歩いていた妹が僕を振り返る。純粋な喜びに満ちた瞳に見上げられて、僕は顔をほころばせた。
「あまりはしゃぎすぎるなよ。こけるぞ」
 注意する合間に吐き出される息は白い。
 妹は「はぁい」とどこか得意げに返事をして、僕の横に並ぶ。
 彼女の頭に積もった雪を僕は払ってやった。

 普段当たり前に聞こえている人々の音は、雪に遮られて聞こえない。
 ただ、僕と妹の足音が一番近く聞こえていた。

 いつも必ず通る交差点で、僕らは足を止める。
 その間にも妹は雪の結晶を手で受け止め、首が痛くなるのではないかというほど真上を見続けた。
 彼女の仕草はとても微笑ましく、僕はそれをただ見る。
 雪に夢中な妹は僕に気を止めることなく雪と戯れ、気まぐれに僕へ言葉を投げかけた。
 投げられた言葉を受け止め、相槌をうつ。
 とても穏やかで幸せな時間。
 ──それが崩れたのは一瞬だった。

 甲高い車の悲鳴。雪に足をとられた車がスリップしながら僕らへ近づく。
 避けることは不可能で、僕は咄嗟に妹へ手を伸ばした。
 だがそれもむなしく、僕の目の前で車は妹をかっさらう。妹の体は弓なりに飛び、地面に叩きつけられた。
 続いて鈍い音が響く。
 全てが幻のように思えていた。現実だと信じたくなかった。
 遮られていた音が鮮明になり、人々が集まってくる。
 誰かの叫びが聞こえていた。
 誰かが僕に声をかけていた。
 誰かが妹に近づくのが見えた。
 僕はただ、妹だけを目に映す。先ほどのように。ここから、妹の表情は見えなかった。
 救急車の音が間近で止まり、救急隊員が妹を運んでいく。
 それから、立ちすくむ僕に気づいて。

 何を言ったのか、僕は知らない。
 全て、僕は拒絶していたのだ。
 だから救急隊員が行った言葉も、理解できなかった。いや、理解したくなかった。
 その言葉は今が現実であることを思い出し、僕の心を砕いた。

 “みうちのかたですか?”

 保っていた何かが崩れて、僕の意識は途切れる。

  ◇ ◇ ◇

 あの後、妹と僕は救急車で病院に運ばれたらしい。
 僕が目を覚ましたとき既に妹はこの世にはなく、両親は泣いていた。
 そして、妹が死んだと信じられないまま僕は妹の葬式に出席している。

 両親はまた泣いていた。
 両親だけではない。葬式に来た人のほとんどが泣いていた。その中には、妹を轢いた車の運転手の家族もいる。
 車の運転手も助からなかったらしい、と両親から聞いた。
 なれない雪道でタイヤが滑った“事故”が原因で、妹が死んだということも。
 誰が悪かったというわけじゃない。
 そう、僕に向かって両親は言った。
 お前のせいじゃないんだ、と言いたかったんだと思う。僕が妹を守れなかったのが悪いのではないと。
 両親の言葉に僕は首を縦に振った。
 だが、心に罪悪感はわだかまる。
 お前のせいだと誰かが囁く。
 それは誰かが優しい言葉をかけてくるたび、増えた。

 妹の幼稚園の先生が両親と言葉を交えている。
 黒衣の列はまだ続く。すすり泣く声も、まだ。
 それら全てが僕を責めているように感じられて─こんなことを誰かに言えば、きっと気のせいだといわれるのだろうけれど─僕はそっとその場を離れた。
 人の目をかいくぐり、人通りの少ないドアから外へ出る。
 と、冷たいものが頬に当たった。反射的に顔を上げる。
 これは、

 ゆ、き。

 妹が死んだあの日、降り積もっていた雪はもう既に溶け、地面が顔を出していた。
 茶色くくすんだ雪の上に、真っ白な雪が降る。
 妹は、最期まで雪と戯れていた。
 そして今、彼女を送るように、また雪が降っている。


 妹よ。
 君は幸せだったろうか。
 五年間の短い生涯を終え、眠る妹よ。
 君は幸せだったろうか。
 雪と共に消え行く、儚い妹よ。
 君は幸せだったろうか。

 僕はそれを問わずにはいられない。

 妹よ。
 妹よ。

 もう一度君の笑顔が見たい。

 妹よ。
 妹よ。


 白く染まる町並みを僕は目の中に納めた。
 涙は流れでず、瞳は乾くのみ。
 泣かないと決めた。
 彼女を守れなかったあの日。
 呆然と立ちすくむしかなかったあの日に誓って、もう涙を流すことはしないと。
 永久の旅へ出た彼女は、もう泣くことが出来ないのだから。
 覚悟を決めて立つ僕はきっと。
 白く染まる町並みの中、きっと僕だけが黒いのだろう。
 妹を送る黒衣の服を身に纏う僕だけが。

  ◇ ◇ ◇

 ここ どこ?

 目をあけた少女は首を傾げる。
 目の前には黒い闇が広がっていて、何も見えない。

 ここ どこ?

 少女は口を動かしたつもりだったが、声は出なかった。
 音がないのだ。完全な静寂。
 目線を落とし、少女は自らの手を見る。
 手を見ることはできた。とても白い、雪のような色合いの手だったが。
 再び少女は首を傾ぐ。

 こんなに あたしのて しろかったかな。ゆきみたい。

 ふわふわと魔法のように空から落ちてくる雪を思い浮かべ、少女は笑う。
 白いのは彼女の手だけではない。少女の着ている服も、また白かった。
 ワンピースのようなその服を両手で摘み、くるりと一回り。服のすそが開いて、浮き上がる。
 それがとても楽しくて、少女は飽きることなく回ったり、飛び跳ねたり。
 一寸先も見えない黒の世界。だが少女は不思議と怖くなかった。

 “ていでん” っていうのは こわかったのに。これは こわくない。
 ──楽しいですか?
 うん。たのしい。

 突然頭に響いた声にも、少女は何の疑問も抱かない。
 穏やかに包む声に、優しく抱きしめる闇に、少女は心の底から安心している。

 ここって どこ?
 ──“ここ”は、元始の闇。
 げんしのやみ?
 ──貴方の始まり。
 あたしのはじまり?
 ──闇に抱かれて眠りなさい。貴方の始まりまで。

 誰かの手が少女の頭を優しく撫でた。
 その心地よさに彼女は目を細め、黒い闇に身をゆだねる。
 意識がだんだん薄れていく感覚。
 が、少女は完全に意識が途切れる前に目をあけた。

 ──どうしました?
 おにいちゃんが よんでる。
 ──ああ。そうですね。
 ないてるよ。
 ──ええ、泣いてますね。
 どうしよう……。

 少女は困ったように眉を下げる。
 暖かく穏やかな闇は少女の気持ちを優先して少し後退した。

 ──お別れを言いに行ってらっしゃい。そうすれば、お兄さんも安心しますよ。
 いいの?
 ──少しだけ。幻で会うぐらいなら。

 曇っていた少女の表情がぱっと明るくなった。

 じゃあ いってきます!
 ──いってらっしゃい。気をつけて。

 誰かに送り出されて、少女は兄の元へと走り出す。

  ◇ ◇ ◇

 おにいちゃん。

 妹が呼んでいる。
 ベッドの中で横たわりながら、僕はそう思った。
 近くに、それこそ部屋の中に妹はいて、僕を呼んでいる。
 起きなければと思うのに、体は動かなくて、目もあけられない。
 だが、見えていないはずなのに妹の姿だけははっきりと見えていた。

 おにいちゃん なかないで。

 泣いてないよ。

 あたしは あたしのはじまりまで ねてるよ。でも おにいちゃんのこと わすれないから なかないで。

 泣いてないって。

 また ゆき みようね。

 ああ。一緒に見ような。

 ばいばい。

 妹が去っていく。笑顔で、僕に手を振りながら。
 僕はゆっくりと目をあけた。
 上体を起こし、部屋の中を見る。もちろん、妹はいない。
 だが、確かに妹はいた。
 彼女の笑顔が目の前に浮かぶ。それが証拠だった。
 カーテンの隙間から外を見ると、ようやく空が明るんできたころだ。
 妹の葬儀から一週間。高校へは一度も行っていない。
 心配する両親をも拒絶して、現実から逃げて、一人自分の部屋に閉じこもっていた。そんな兄が心配で、彼女は会いに来たのだろうか。
 僕は足を床につけ、ベッドから出た。
 改めてカーテンを開け、窓も開ける。
 早朝の冷たくて新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。この空気の冷たさは早朝だからだけではない。
 また雪がちらついていた。結晶を手の平に受け止める。
 僕の来ていた黒い服の袖に雪が付いて、少しずつ溶けていった。
 喪に服すのごとく、葬儀の日から僕は黒だけを選んで着ている。
 この先も永遠にそうするつもりだった。高校にも行かず、中退して家を出て、どこかでひっそり暮らしていければ。そんなことを考えていた。

 なのに。

 僕は白い息を吐き出しながら、空を見上げる。
 震える指先で目を覆った。指の合間から雫が零れ落ちる。

「由希」

 僕は妹の名を呼んだ。
 雪と同じ名前だと、妹が喜んでいた彼女の名を呼んだ。
 守りきれなかったあの日に、ひそかにもう呼ばないと決めていた名を。
 涙を流しながら。

 あの日決めたことは全て破った。
 妹が、由希が泣かないでと言ったから、泣くのを止めるために涙を流す。


 妹よ。
 君は幸せだったろう。
 笑顔でさよならを言った妹よ。
 君は幸せだったろう。
 雪に抱かれて逝った妹よ。
 君は幸せだったろう。

 僕は君が幸せだったと信じ、生きていこう。

 妹よ。
 妹よ。

 君の笑顔は、けして忘れない。

 妹よ。
 妹よ。


 例え、都合のいい僕の夢だとしても。
 雪と同じ白を纏った妹の言葉を僕は受けとめ生きていく。
 黒を纏うのを止めて、閉じこもるのを止めて、学校に行って。

 窓の外を見ると、雪はもうやんでいた。
 僕ももう、白に囲まれた黒じゃない。