春の訪れ


 暖かいコートを着込んで、お母さんが編んでくれた茶色いマフラーを首に巻く。かごも忘れないように手に持った。財布はポケットだ。
「行ってきます」
 奥で寝ているお母さんにそっと声をかける。聞こえないように言っただけあって、返事は無い。
 今日は具合の悪いお母さんの変わりに私が買い物に出かけるのだ。
 外に出ると冷たい風が吹いてきて、私は思わず身をすくませる。一歩前に出ると、びちゃ、と溶けかけた道路の雪が靴に跳ねた。
 隣の家の犬が元気に、鎖につながれたまま、周りを飛び回ったりほえたりしている。通りかかると私もほえられた。近づく人全てにほえたてて、空を飛ぶ鳥にもほえて、飼い主にもほえて。この頃は落ちてきた雪やら雪だるまやらえさ入れやら──今日は自分の小屋の中にまでほえている。
 世の中全てにほえてるんじゃないか、と思いながら私はそこから離れた。
 お母さんは冬に入ってから、体調を崩していた。酷くせきをしていたかと思えば、寝込むことが多くなって、いつも辛そうにしている。お医者様には見てもらった。でも高い薬は買えなくて、安静にしていること、といわれただけ。
 お父さんはお母さんのために朝から晩まで働いている。今までの仕事を夕方までした後に、また別の仕事に出かけてる。
 私はいつもどおり、学校へ行って、それ以外はお母さんの側に居る日々。本当は学校に行かないでお母さんの側に痛いんだけど、お母さんがダメと言うから、仕方なく学校へは行くようにしていた。
 いつも学校へ行くときに歩く道を進む。昨日帰りに歩いたときは、溶けていた雪は今日また固まってしまっていて、つるつると滑ってあぶない。私はこけないように力を入れながら、足を前に出す。
 ……実は今日も学校がある。だけど今日は自主休校にした。ベッドで寝ているお母さんが起きる前に、買い物に行く。そしてこれから先の食べ物を買うのだ。
 私は知り合いに会わないように気をつけながら、先を急いだ。
 順調に買い物をする。私が買いに来たことに、店の人は驚いていたけど、事情を話せば納得してくれた。
 パン屋さんと八百屋さんと肉屋さんによって、私は来た道を戻ることにする。手に持ったかごの中は満杯だ。重たくて手が痛い。
 いつもは立ち止まる、服屋さんの前もお人形屋さんの前も通り過ぎて、家へと歩いていく。
 もうお母さんは起きているかもしれない。そうしたら、かごが無いことに気づくだろう。私が学校に行っていないことに気づくだろう。心配させたくはないと、歩きづらい道をさらに急ぐ。
 一度こけそうになって、揺れたかごの中身を確かめた。
「何で一気に溶けないのかなぁ。」
 むっとして呟く。溶けて、また凍ってはいつものことだが、毎回うんざりする。さっさと溶けてくれないだろうか。暖かくなれば、お母さんの具合も良くなるかもしれない。
「おじょーちゃん」
「えっ?」
 その人が声をかけてきたのはとつぜんのことだった。今まで隣に誰もいなかったはずなのに、気づいたらお父さんよりも背の高い人がそこにいて、私の肩に手を置いていた。
 思わず声をしたほうを見て、私は動けなくなる。逆光でさえぎられた顔は何だか怖かった。叫ぼうとしたけれど、声は出ない。
 私がじっと固まっていると、相手の人はああ、と小さな声をこぼして腰を曲げる。間近で目が合った。
 大きな姿の割には、優しそうな目をしていた。目じりが下がっていて、眉も同じように下がっていて、口元には笑みがたたえられている。丸い鼻に、短く切られた髪。深く刻まれたしわの割に、髪は黒々としていた。
「ごめんごめん。怖かったかな? よく言われるんだ。お前はでかくて怖いって」
「……はぁ」
「ちょっと聞いてもいいかな? ここらには詳しく無くて」
 ここいらの人じゃないのか、と私は思った。その人は大きなカバンを持っていて、かっちりとしたコートを着ている。よく見ると帽子を片手に持っていて、私に挨拶をしたときに脱いだようだった。
「何ですか?」
 急いでるんだけどなぁ、と思ってもそれは言わない。言うのが怖いし、助け合うのが大切だとお母さんがよく言っていたからだ。ここで急いでいると去ったら、起きたお母さんに何を言われるかわからない。
 その人はカバンを置いて、これくらいの、と言いながら両手の感覚をとった。小さな箱ぐらいの大きさだ。
「大きさの、ね。白い生き物、見なかった?」
 白い生き物、とはなんだろう。ずいぶん曖昧な説明だ。
「白いって、犬か何かですか?」
「うんまぁ、そういうものだとおもっていいよ」
「……見てない、です」
 少し考えても思い浮かばなくて、私は正直にそういった。今日見たのは外を歩いていた飼い主とその飼い犬、繋がれていた犬と鳥ぐらい。大きさと色が合うものはない。
「本当に? 本当に見てない?」
 その人は念を押すように聞いてくる。見ているはずだ、と暗に言っているような気がして、私は眉をひそめた。私が見ているという確証でもあるのだろうか。
「本当に見てないです」
「そっかー」
 はっきりといえば、その人はがっくりと肩を落とした。何だか可愛そうな気はしたけれど、私も先を急いでいるし、私に出来ることはなさそうだし、とそろりそろりとその場を離れる準備をする。
「じゃあ、私はこれで」
 にっこり笑ってそう言って、すたすたと歩き出して──と。
「あ、じゃあさ」
 また話しかけられた。にこにことその人は笑ったまま先へ進んだ私の側に歩いてくる。
「隠れられそうな場所、知らない?」
「……わからないです」
「本当に?」
「本当です」
「本当に?」
 その人は途方に暮れたような顔をした。私に目線を合わせてくれてるし、最初の印象よりは優しい人だとわかったけど、なんだかしつこい。
 私はさっさと家に帰りたいのに。
「本当に知りません。ごめんなさい」
 きっぱりとそういって、私は一方的に頭を下げ、歩き出した。滑らないように気をつけながら、最大限の速さでその人から離れていく。
 家の近くまで来ると道は出てきたときと同じように溶けていた。歩きづらいが、こけはしない。さらに急いで足を進める。
 隣の家の犬の、ほえる声。わんわんとやかましいそれを聞きながら、隣を通り過ぎ──世界がぐるりと回った。
「おっと」
 食べ物の入ったかごを放り出して、こけかけた私をしっかりと誰かがつかむ。空中に浮かびかけたかごをもその人は受け止めた。支えられたままびっくりしていると、相手は軽々と私を持ち上げ体勢を立て直させた。踏みしめた道はしっかりと固まっている。それでこけたのだ。
「大丈夫?」
 またいつの間にか後ろに来ていたさっきの人は、そう尋ねながら私の放り出したかごを渡してくれた。見られたことを恥ずかしく思いながら、私はこくりとうなずく。
「ここだけ凍ってたんだね。危ない危ない」
 その人は私の立っている地面を見てそう言うと、辺りを落ち着き無く見回し始めた。やがて自分の小屋に向かってほえ続けている犬に目を留める。ゆっくりとそれに近づいていった。
「ちょっとごめんね」
 その人はほえている犬の頭に優しく触れて、小屋の中を覗き込む。犬は尻尾を引きちぎれそうなほどに振って、ほえるのを止めた。
 小屋の中を見たその人は、やっぱり、と嬉しそうに漏らし、小屋の中へと手を伸ばす。
 片手に乗せるようにして小屋の中から出したのは、白くて毛の長い生き物だった。ふわふわとして、何だか毛糸に似ている。
「ダメだぞ。勝手に居なくなっちゃ」
 その生き物は、その人が胸の辺りまで持ち上げると、ぴょんとその人の肩に飛び乗った。そうかと思えば頬ずりするかのように肩の上で動く。
 私は一部始終をぽかんと見ていた。
 その人は生き物に好きなようにさせておきながら、私のほうに目を向けた。ついじっと見てしまう私に、にこりと笑う。目元に現れたしわがとても優しそうだ。
「雪は溶けるよ」
 予言のように言葉を発し、その人は去っていった。帽子をかぶりなおし、肩に白い生き物を乗せ、歩いていく道をキラキラと輝かせながら。
 隣の家の犬と、私はそれが見えなくなるまでぽかんと見送っていた。

 ああ、雪が溶ける。
 春になる。