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いつもの日常。いつもの道。 ──そこに、変化が一つ。 ハグルマ 「買い物行ってきまーす!」 棚の上に置かれていた買い物籠を手にとって、あたしは奥にいる親方へと声をかける。 親方はかまどを見つめたまま「おう」と短く返事をした。そのかまどから、甘い匂いが部屋中に広がっている。お菓子作りの最中に広がる甘い匂いは、何も作っていなくても部屋にこびりついてはなれない。 甘い匂いを振り切って、あたしは工房の外へと飛び出した。 お菓子の材料を買うのは菓子職人見習いのあたしの仕事。砂糖とか小麦粉とか、いつも必要なものはお店屋さんに届けてもらうけど、果物は別だ。 親方の方針が"果物は直接見て買う"ってやつで、こうしてあたしが買い物に出かけることになる。 もっともあたしが買い物をまかされるようになったのもつい最近で、それまでは親方が自分で買いに行ってたんだけど。 「まかされたってことは、ちょっとは認めてくれたのかな」 ぽつりと言って、道端の小石を足で転がす。 親方は少し認めてくれたんだろう。でも、まだまだ。かまどに触らせてはくれないし、材料をこねることもさせてくれない。今はまだ材料を計ったり、洗いものをしたり、それだけだ。 よし、と両手を握って気合を入れる。 認められるようにがんばろう。 そう心に決めて、歩いていく。八百屋さんの前まで来て、あたしはまっすぐ八百屋さんを見つめた。 あたしに気づいた八百屋さんのおじさんが目元をゆるめる。 「お、リィじゃないか。いらっしゃい。今日はどの果物を買ってくんだ?」 ごうかいな笑顔のおじさんの質問にあたしはにやりと笑う。 「もちろん、一番良い果物よ!」 ◇ ◇ ◇ 八百屋さんから果物を買って工房に帰ると、親方は額に汗をいっぱいかいて、お菓子作りを続けていた。 「果物買ってきました!」 「おう、じゃあ、それ置いて外に出てろ。休憩だ」 大声で─少し自信を持って差し出した果物を見ないまま、親方はいつものように言う。買い物して帰ってくるといつもそう。あたしを外に追い出して、自分だけでお菓子を作り上げてしまう。 いつもどおりのことを言われたのにむっとして、あたしは黙ったまま工房から出た。 見もせずに言わなくたっていいじゃない。 不満が心に広がる。こう日に限って見上げた空は灰色で、さらに気分が沈んだ。さっきまで晴れてたのに。 あたしにもお菓子作りさせて! そう叫びたいけど、そんなことを言ったら親方はまだ早いって言うに決まってる。だからあたしは何も言わずに暇を潰すしかない。 はぁ、とため息を吐いた。 「家でお菓子でも作ろうかな」 ホントは家じゃなくて工房でお菓子を作りたいけど、無理だから。 あたしはとぼとぼ歩き出す。あたしの家は、さっき通った八百屋さんへの道を通ってさらに進んだ先にある。工房から追い出されたらいつも、通る道。 さっきは意気込んで進んだ道を、今度はゆっくり歩く。 カラン、と道の途中で何かをけとばして足を止めた。 「何…?」 視線を落とせば何かが道に落ちている。 さっき通ったときには何も無かったのに。 あたしは腰を曲げて手を伸ばした。道に落ちているものを拾い上げる。 手に持ったそれを目に入れて、一つ瞬いた。 歯車だ。細かい透かし模様のある鉄の歯車があたしの手の中にある。こんなに細かい歯車は今まで見たこと無くて、とても綺麗だった。 「落し物かな?」 手首をひねって見える角度を変える。 名前はない。……歯車に名前を書く人なんていないと思うけど。 持ち主がわかるようなものは何もなかった。有るとしたらこの歯車の形そのもの。 交番に届けたほうがいいかな。 交番へと足を踏み出そうとして、止める。 手の中には歯車が一つ。歯車一つだけを飾って見るんじゃない限り、この歯車は何かの部品だろう。 きっと、失くした人は困ってる。 手の中の歯車を握り締める。悩んだのは一瞬だった。 「きーめたっ」 あたしは交番とは反対方向に歩き出す。 探そう。あたしがこの歯車の持ち主を探し出そう。今は休憩中で暇だし、工房には帰れないし、交番に預けるよりずっといい。 そして、もし持ち主を見つけられたら。 ……見つけられたら。 速足で歩きながら、あたしは唇をかみ締めた。 親方に言うんだ。"お菓子作りさせて"って。 それはとても良い考えだと思った。歯車の持ち主を見つけるのはきっと難しい。その難しいことが出来たら、あたしは勇気を持って親方に言う。 周りの人に見えるように歯車を胸の高さまで持ち上げた。水のせせらぎと人の声が近づいてくる。 町の広場に着いて、歩みの速さをゆっくりにした。 広場には噴水があって、昼間でもいろんな人が集まっている。この中になら、歯車の持ち主がいるかもしれないし、持ち主を知っている人がいるかもしれない。 「あー! リィだ!」 あたしに気づいた子がさっそく駆け寄ってきた。一人駆け寄ってくれば、広場で遊んでいた子供達が一斉に集まってくる。 あっという間に子供達に囲まれてしまった。 「こんなところで何してんの? おつかい?」 「なに言ってるの。おやかたに追いだされたにきまってるじゃない。ね、リィ」 「だったらおれたちと遊ぼうよ」 「何する? おにごっこ? かくれんぼ?」 「あれ? その手にもってるの、なあに?」 勝手に声をかけてきた子供うちの一人があたしの手の中の歯車に気を留める。 あたしはその歯車をみんなに見えるようにかかげた。 「歯車。落ちてたのを見つけたの」 「おちてたの?」 「おとしものー?」 みんなの視線が歯車に集まる。 「そう落し物。だから持ち主に返そうと思って探してるの。誰か、歯車の持ち主を知らない?」 子供達はお互いに顔を見合わせて、それから首を振った。 誰も知らないらしい。 でも。 「リィ、持ち主さがしてるんだ」 「わたしたちも探す!」 一人がそう言い出せばみんなが手伝うと言ってくる。子供達は誰も知らなかったけど、手伝ってくれる人が増えた。 「ありがと。じゃあ、手分けして探そうか」 「うん!」 一斉にうなずくと、子供達はバラバラに散らばっていく。 母親に、友達に、広場にいる人に。歯車の持ち主を知らないかと聞いていく。 あたしも負けられないと、近くの人に向かって駆け出した。 一人、また一人と聞いていくけど、誰も歯車の持ち主を知らない。 探してくれてる子に会うたび見つかったか聞いたけど、やっぱり見つかってないみたいだった。 そのうちだんだん空が暗くなってきて、雨が降るから、と迎えに来たお母さんに連れられて帰っていく子が増えてくる。それでも歯車の持ち主は見つからない。 ついには最後の一人になって、あたしとその子は噴水の前で顔を合わせた。 「見つかった?」 髪の短い男の子─ライはぶんぶんと首を振る。少し離れたところにライのお母さんが傘を持って立っていた。空は今にも雨が降り出しそうだ。 歯車の持ち主を探すためにお母さんが止めるのも振り払って、探し回ってくれたんだろう。 あたしは首をめぐらせて広場を見たけど、みんな帰ってしまったのか他に人はいなかった。 うつむいているライに向かって、あたしは笑う。 「しょうがないよ。あたしも見つからないだろうなって半分思ってたし、旅の人が落としたのかもしれないし」 「でも……」 「あとはあたしが探すから、大丈夫。ほら、お母さんが待ってるよ」 ライはお母さんを見て、あたしを見た。あたしは笑ったままうなずく。 あたしを気にしながら、ライはお母さんのもとへと歩いていった。ライのお母さんがライを抱きしめる。 ライのお母さんは軽くあたしに会釈して、ライと手をつないで帰っていった。 二人が見えなくなってから、あたしは上げていた口の両端を下げる。 あんなに手伝ってくれたのに、見つからなかった。やっぱり、歯車の持ち主を見つけるなんて無理なのかもしれない。 親方にお願いすることだって……。 頬に冷たいものが当たって、あたしはハッと空を見た。大粒の雫が地面に向かって落ちてくる。雨に当たって、全身が濡れていく。 あたしは歯車が濡れないように抱えこみ、駆け出した。 走って走って走って走って。髪が濡れるのも服が濡れるのもかまわず走って。木造建ての小さな家までたどり着いた。鍵を開けるのも惜しい勢いで鍵を回して家の中に飛びこみ、すぐに扉を閉める。 背後に雨音を感じながら、荒く呼吸を繰り返す。 少し息が整って、あたしは深く息を吐きながらその場に座り込んだ。 抱え込んでいた歯車を取り出す。全身でかばっただけあって、濡れてはいない。 よかった。そう安心して、身震いを一つ。全身が冷え切っていて寒かった。 顔を上げれば飛び込んでくるのは暗闇。 この家はあたしの家だ。でもあたしの家に待っていてくれる人なんていない。全身をぐっしょり濡らしたあたしを心配して、お風呂を入れてくれる人なんていない。自分で全部やらなきゃいけない。 扉に手を突いて立ち上がって、足を前に出した。走ってきたせいで足が重い。それでも何とか歩いて、部屋の真ん中にある机に近づいていく。 その机に歯車を置こうとした時、窓から光がほとばしった。 声にならない悲鳴を上げて、あたしはその場にうずくまる。机の上に置きそこなった歯車が床へと落下、転がって扉にぶつかるのが見えた。 遅れてゴロゴロと音が聞こえる。真っ暗な家の中、あたしはうずくまって震え続ける。 あたしの家にはあたししかいない。あたしのお母さんは小さい頃森に薬草を取りに出かけて帰ってこなかった。お父さんは遠い町まで出稼ぎに行っている。手紙が月に一回来るかこないかで、家に帰ってくることはない。 あたしはほとんど親方に育てられた。親方はお父さんの友達で、あたしを育てるためにもお母さんを探すためにもお金が必要なお父さんは、親方にあたしのことを頼んでこの町を出て行った。 だから十二歳までは工房で親方と一緒に暮らしてた。でも今は、あたしはこの家に一人で暮らしてる。 けじめだと親方は言っていた。あたしが一人でも暮らしていけるように、あたしはこの家に─お母さんとお父さんと三人で暮らしていた家に一人で住まなければならないと。 それから、十二歳から四年間、ずっと一人でここに。 今までだって雷がなった日はあった。そんな日をあたしは一人で乗りこえてきた。 だけど。 だけど、こんなに心細い日は知らない。怖くて震えが止まらない日を知らない。 いつも怖かったけど、ちゃんと乗りこえてこれたのに。涙も流したこと無かったのに。 目の奥が熱くなって、あたしはまぶたをきつく閉じた。震えは止まらない。あたしがうずくまっている間にも閃光が走り、鈍い音が鳴る。 今、ライはお母さんと一緒にいるんだろう。雨が降るからと迎えに来たお母さんと一緒に。雷が怖くてお母さんに抱きついてるかもしれない。 他の子供も、家族の誰かと一緒にいるんだろう。 でもあたしは一人。 お父さんが都合も良く来てくれるはずはなく、親方が雨の中お菓子作りを放り出してまで来てくれるはずもない。 あたしは一人。 あたし自身を両手で抱きしめる。あたしが、あたしを。 閃光と轟音とが連続に同時に響いて、あたしは震える手で両耳を塞いだ。雷が止まらない。 風は荒れ狂い、雨が窓をうった。この世の終わりとも思える時間が続く。家がきしみだした。 ──唐突に扉が開き、瞬間的に風が家の中をめぐり髪がなびく。 あたしは風の中、扉のほうに目をやった。人影が見える。ローブのフードを深くかぶり全身が濡れている、知らない人。 見知らぬその人は開いた扉を閉じた。そして部屋を見回し、ようやくあたしに気がついたのか動きを止める。 視線を感じてあたしは息をのんだ。 しばらくあたしを見ていたその人はやがてあたしに向かって歩いてくる。 無言で近づいてくるその様子に恐怖を感じて、あたしは逃げようとした。だけど、体が動かない。 その人があたしの目の前までやってきて、あたしは思わず目を閉じた。 雨音に混ざってシュッと擦るような音が耳に届く。目をつぶったまぶたの裏がほのかに赤くなり、あたしは恐る恐る目を開けた。 最初に飛びこんできたのは光。机の上にあったはずのあたしの家のランプが目の前に置かれていた。 顔を上げれば、机の横に立っている見知らぬ人が見える。 見知らぬ人はあたしを見てかぶっていたフードを外し、顔をさらした。 目に入ってきた光景にあたしは思わず目を見開く。 薄暗闇の中では色までははっきりわからないけど、雨に濡れてもなお、きらめくような美貌がそこにはあった。 見知らぬ侵入者は整った顔立ちの青年だった。 「驚かせてすまぬ。雨宿りをさせて欲しいと思っただけだったんだが……人がいるとは思わなかった。ノックの音は聞こえなかったか?」 青年の質問にあたしは首を振る。青年はわずかに苦笑した。そんなしぐさも様になる。 「この雨と風だ。雷もすごい。聞こえなくても仕方が無いか。繰り返すが、少しの間雨宿りをさせてもらいたいだけだ。何もしない。すぐに出て行こう」 真剣な顔で言ってくる彼にあたしは答えようと口を開く。が、声にならない。恐怖で喉がつまってるんだろうか。あたしは返事に困った後、何度も首を縦に動かした。 青年の苦笑が微笑みに変わる。 「ありがとう。ところで、お前は一人でこの家にいるのか?」 さり気なく手が伸ばされて、彼はあたしの髪に触れた。わだかまっていた恐怖が不思議と消えていく。 「──ぁ、はい」 「そうか。ならば、そこに落ちていたこれはお前のものか」 青年が扉を指差し、もう片方の手の中のものをあたしに見せた。 それは歯車だった。さっき落とした歯車。 あたしは歯車が目に入ったとたん、衝動的に口を開く。まとまらない言葉が口からあふれ出した。 「それはあたしが落ちてたのを拾って。あ、道に落ちてたのを拾ったんです。持ち主に返そうと思って探して。みんなで探して。でも見つからなくて。そのうち雨が降ってきて。それで家に持って帰ってきたんですけど、落としちゃったんです」 「落し物、ということか」 「はい」 しっかりとうなずく。すると彼はあたしから目をはなし、あたしから見えない反対側を向いた。元の通りあたしを見たころには、彼の両手の中には細かい模様の彫られた鉄の箱があった。 彼はその箱と歯車を机の上に置く。座っているあたしからは二つが見えなくなった。 見えないまま机の裏を見上げていると、彼が床に置かれたランプを拾い上げた。 「立てるか?」 言葉と同時に手が差し出される。あたしはその手を取った。骨ばった、指の長い手に助けられて立ち上がる。 彼がランプを机の上に置いた。机の上には箱と歯車が並んでいる。 「この歯車は私の落としたものだ。そして、この箱の部品だった」 「箱……?」 「この歯車一つが無ければ、これはただの鉄の塊だ。だが、この歯車が元の場所に戻れば」 青年はそう言って歯車をつまみ、箱の裏をいじって歯車を中にはめた。 そして、箱を開ける。 鈴の音のような音が連続して鳴り出した。小さいはずのその音は雨風の音に負けず、家中に響いていく。 「すごい……。どういう仕組みなんですか?」 「歯車が回って、全体の仕掛けが動くようになっている。詳しくは私にもわからん」 まるで魔法だった。周りの音や景色が箱から奏でられる音に消されていく。 心がおどり、目の前に幻想が広がる。 色とりどりの虹。かぎなれた匂い─けれどここではしないはずの甘い匂いがあたしを包む。音は意識をかけめぐり、意識は世界を駆け巡る。 夢の世界。そこでは何もかもが可能で、お母さんもお父さんも親方もみんないた。 いろいろなお菓子があたしの横を通り過ぎていく。 食べたいと思った。──作りたいとも思った。 どれだけ時間がかかっても構わない。親方にいつか作らせて貰うのだと思った。 ぽん、と肩に手が置かれて、現実に戻ってくる。隣を見れば美麗な青年が微笑んでいた。 「あ……」 幻におぼれていたと知って、あたしは頬を赤くする。青年が微笑みを深くする。 「幻想は見えたか?」 「はい」 「お前の拾った歯車はこの箱にとって大切なものだ。見つけてくれて助かった。ありがとう」 「い、いえ」 顔が熱い。青年をまっすぐに見ることが出来なくて、あたしは目線を落とした。 「さて、そろそろ私は失礼しよう」 だから、青年が言った言葉には本当に驚いた。 こういうのをなんと言ったか…そう、寝耳に水、だ。 勢いよく顔をあげると青年はフードをかぶりなおしているところだった。さっきの箱の音色がかすかに聞こえているが、肝心の箱はしまったのかもう見当たらない。 「まだ、雨が降っているのに……?」 「もう止むだろう。たいしたことはない」 「もう少し居ても、あたしは平気だけど」 むしろ泊まっていって欲しい。あたしの願いを隠した控えめな提案に、彼は首を振る。 「元々、歯車を見つけるためにこの町にとどまっていただけだ。先を急ぐ旅なのでな。これで失礼する」 青年はまっすぐ扉へ向かって歩いていく。ためらいも無く取っ手に手をかけ、雨の中へと踏み出した。 あたしはそれを追うように扉へ駆け寄って、だけど青年の背中を黙って見送る。 青年の背が見えなくなっても、しばらく箱の音色は耳に届いていた。やがてそれも完全に消えて、雨音だけが後に残る。 行ってしまった。 聞こえなくなったはずなのに、箱の音色が耳に残っている。目を閉じればさっき見た幻がまぶたの裏に映りそうだった。 名残惜しく雨の中を見つめ、濡れてはたまらないと扉を閉めようと取っ手に手をかける。と、人影が雨の中に見えた気がして目を凝らした。 思ったとおり、人影が近づいてくる。 あんまり雨がひどいから、戻ってきたのかな。 淡い希望を持ちながら、あたしはその人影が近づくのを見ていた。 だんだん輪郭が明らかになる人物。その人物が誰だかはっきりしたところであたしは口をぽかんと開ける。 その人物はあたしを見つけると眉間にしわを寄せた。 「おい。何で開けっ放しにしてるんだ。さっさと中に入れ」 低い声に言われてもあたしはその場から動けない。相手があたしの目の前で立ち止まってますますしわを深くする。 あたしは思わずそのさまを足先から頭のてっぺんまでしげしげと見つめてしまった。 「何だよ。何見てんだ」 その視線に相手が居心地悪そうに身じろぎする。 髪もひげもぐっしょり濡らして、そこに親方が立っていた。 「何で、親方が雨の中から来るんですか」 「何でって……そりゃあお前が心配だったからに決まってんだろう。いいから中に入れ。風邪引くぞ」 「は、はい」 とがめる声に言われて、あたしは一歩下がろうと片足を下げる。だけどあることに気がついて空を見た。 再び口を開ける。 「あ」 「ん?」 親方も異変に気づいたのか体をよじって空を見た。 雨がやんでいる。 それだけじゃない。あんなにすごかった雷も風もない。それどころか黒い雲が引いていき、ところどころから青空が見え出した。 唖然とあたし達が空を見ている間に、雲は消え去りさっきの荒れようが嘘のような快晴になる。雲ひとつない。 「嘘だろ、おい。俺が来た意味なかったじゃねぇか」 くそっと舌打ちした親方に思わずあたしは噴出した。 「ぶっ……くくっ、く、あ…あはははははははははは」 耐え切れずに笑い出す。 すると親方は頭に血を上らせて叫ぶ。 「笑うな! 人がせっかくお前を心配してきてやったってのに、笑うんじゃねぇ!」 「だってっ。親方運悪っ……」 「だーかーらー、笑うんじゃねぇッ!」 怒っている。普段は冷静で感情を見せない親方が真っ赤になって怒っている。 そのことがさらに面白くて─ついでに言うと嬉しくて─あたしは笑い続けた。親方の叫びもお構いなしに。 ひとしきり笑ったあと、目じりに溜まった涙をぬぐう。 「あ、ありがとう親方。大好きだよ」 「……おう」 笑いの余韻を残したまま言ってしまえば、親方は赤い顔のまま短く返事をした。 「大好きだから、今度お菓子作りさせてね」 「それとこれとは話が別だ! それに親方には敬語を使え、敬語を!!」 「親方は親方でも、お父さんの友達の"親方"に言ってるんだからいいの」 「お前なぁ」 怒ったような口調で、親方が言う。 言い過ぎたかなとあたしは心の中で舌を出した。 だけど、続いたのは呆れたようなため息で。 「今度、店が休みの日にな。お前の菓子を店に出すのは十年早い」 それは厳しい言葉も混ざっている、でも確かに一歩前進したことを示す台詞。 あたしは満面の笑みで親方に抱きついた。 「ありがとう親方! 大好き!!!」 「おいッ、もう大きいんだから抱きつくな!」 「まだまだあたしは半人前だもんねー」 「それはそういう意味じゃないだろうが」 一方的にじゃれあう。親方は照れながらも呆れながらもあたしをひきはがさないでくれる。 そのことに感謝しながらあたしは快晴になった空を見上げ、あの素敵な音色を思い出した。 歯車一つで魔法の箱に変わった鉄の箱。あれを持った美麗な旅人はいったいどこへ行ったのだろう。 親方から手を放して、地に足を着く。家の中へと歩き出しながら親方を振り返った。 「お店は休みにしてきたんでしょ? だったら、まずあたしの話を聞いて。お菓子作りはそのあとね!」 「さっそくか……」 「いいよね。素敵な話をするからさ!」 あたしは知ってる。しぶしぶ言いながらも親方は付き合ってくれることを。 まず魔法の箱の話をして、それからお菓子作り。 日持ちするお菓子でも作って、お父さんに送ろうかな。 ◇ ◇ ◇ 町を出て、山へ登る道のふもとで青年は足を止めた。広大な空を見渡して、端のほうでくすぶっている黒い雲に目を細める。 彼は道端の岩へと腰を下ろした。まだ鳴り続けている箱をどこからら取り出す。 「あのぅ」 「なんだ」 震える声に話しかけられて、青年はさも当然と言う風に言葉を返した。 いつの間にか彼の隣に少女が立っている。 少女は着ている真っ白な服のすそをぎゅうと握り、唇をかんだ。目が潤んでいる。 今にも泣き出しそうに顔をゆがめて、口を開いた。 「ご、ごめんなさっ」 「わかってる。わざとやったとは思ってない。だから泣くな」 大きな瞳から水がぽろぽろと落ちる。箱は音色を奏で続けていた。 青年は一つ息を吐き、少女の頭をなでる。 「今度から気をつければいい。歯車一つ失くしても、すぐ壊れてしまう。それを覚えて、今度から気をつければいいんだ」 「はぃい……」 しゃくりあげて、少女は両袖で目をこすった。 「世界はもろい。この鉄の箱のように歯車一つなくしただけで壊れてしまう。だが人は強いからすぐには滅ばぬ。その証拠に半日持っただろう?」 「はい」 「だから大丈夫だ。世界は簡単に滅びない。彼女が─リィが歯車を拾ってくれたように」 青年は両手で持った箱を天へと差し出す。まず箱が煙となった。細工の施された歯車のみが手の中に残る。それも粒子の粒となり、世界に溶けていく。端のほうでくすぶっていた雲が消えた。 彼はそれを見届けて口角を上げる。 「これで元通り。今度からは落とさぬよう、注意しよう」 「はい」 少女はしっかりと頷いた。もう泣いてはいない。 微笑んだまま青年は立ち上がった。立ち上がる間に薄汚れた旅人のローブから少女と同じ純白の服へ変わる。 「行くか」 「はい」 彼らは空に溶けて消えた。 いつもの日常。いつもの道。 そこに、変化が一つ。 ──世界を揺るがす、歯車が一つ。 *突発性競作企画 第12弾『 機械仕掛け 』参加作品。 |