とある主従の話
1.眩い太陽に焦がれて、その側に寄り添おう
「彼」がいつから意識を持っていたかは彼自身すら定かではない。
けれど、一番最初の鮮やかな記憶ははっきりと思いだせる。
赤ん坊の泣き声に、彼はそちらへと向った。森を抜ければ赤子をあやす女性の姿が見える。ふと、さわさわと側に居た木が揺れた。その葉擦れの音に、赤ん坊が緩やかに眠りへと着いていく。
「ふふ、ようやく眠ってくれた」
「ああ……かわいい寝顔だね」
女性が微笑めば、傍らの木が答えた。そっと近づいて、その木がトレントだと気づく。
「当たり前じゃない。私と貴方の子供なんだもの」
「そうかな?」
「そうだよ」
穏やかに言いきった女性に、トレントが少し笑い声を零した。
彼、はそっと赤ん坊の側へと近づく。赤ん坊を見たことはなかったが、随分と小さいものなのだな、とぼんやりと思った。
「あれ?」
途端に、彼のほうを見て声を上げた女性に、びくりと──彼に形はないため、彼がそのつもりであるだけだが──して僅かに距離を取る。
「どうかしたのかい?」
「うん……何かいる気がしたんだけど」
驚いた。彼のことを気づくものがいるとは。
女性の言葉を受けて、トレントがああ、と言葉を漏らす。
「それはきっと式だろうね」
「式……って、あの、この間話してくれた精霊みたいなもの?」
「ああ、そうだよ。誰かの式、ではないと思うから、今はただの曖昧な影だろうけど、悪いものではない。むしろ、共に居てくれたなら守ってもらえる、という話もある」
自分は式というものなのか……と彼は話を聞きながら思う。
「そう。でも、どうして此処に来たのかな?」
「そうだね……私も式については良く知らないのだけれど、もしかしたら、若謳を見に来てくれたのかもしれないよ」
ああ、それは素敵ね、と女性が微笑む。そして彼のほうを見て──
「私達の愛しい子を、見に来てくれてありがとう」
彼女がそういった言葉の意味を、彼はしばらく後に知った。
けれどその時は何も知らないまま、ただ自分を見てくれたことに喜んで……できるだけ、共にいようと思ったのだ。
2.差し伸べた手が届くなんて
彼、は曖昧で形を持たなかった。だが共に居れば彼女が喜ぶらしいと知って、幼子の側に居続けていた。
その内に、子供も話すようになり……その子供もまた、彼のほうをみたときの喜びは今でも忘れられない。女性よりも無邪気であるゆえか、子供は返事がなくとも頻繁に彼へと言葉を投げかけた。
そして子供にとっては一人遊びだったのだろうけれど、子供の側で、彼はよく一緒に遊んで(いるつもりになって)いた。
そんな折に、事件は起きた。
大きな水音を立てて子供が水の中へと消える。
なんてこと! そう叫んだつもりだったが声は生まれない。自分はここにいないことになっている。
子の母は今不在だ。夫に呼び出されて、召使に子供を預けて出かけた。
つまり、誰もすぐここへは来られない。
水面を見るが、沈んだまま子供は浮かんでくる様子がない。このままではあの子は死んでしまうだろう。
無力だ。共に居れば守ることが出来るかもしれない、なんてそんなのは夢物語だったのだろうか。
それでも諦められなくて、「私」は声を上げる。自分の発した声が聞こえなくても、何度も何度も名を呼んで、手を伸ばした。
何かを成したかった。このまま、失いたくはなかった。
そう強く思って──何かに意識が引っ掛かる。
──苦しい。助けて──
水が肺へと入り、息が出来なくなっていく……手足が上手く動かせなくて、そのまま……。
いやだ!!
最初にぐるり、と水が渦巻いた。次には天へと立ち上り、その勢いで子が水の中から外へと放り出される。
必死になって手を伸ばした。風が私の周りを取りまき、受け止める直前、子供の落ちてくる速度をほんの少し遅くする。
子の冷たさに心臓がはねる。だめだ、しなないで。
「っ……げほげほ」
子供が咳き込んだのはそのときだった。全身をぬらした状態で何度も何度も咳き込んで、ぐったりと私に身体を預ける。
そうして、少しだけすがるように服を掴んで──……服、を?
「……あり、がと……」
呟くと意識を落とした。ああ、このままでは不味い。一度家に帰らなくては。そんな風に冷静に思って歩き出す自分と……一方で、混乱し始める自分がいた。
どうやら、自分は人型をとったらしい(しかもがっちり受け止めた)。
『……どうしましょうか』
思わず呟いた声すらも、ちゃんと自分の耳に届いて愕然とする。
その後母親が戻ってきたのだけれど、どうやら若謳と私自身にしか姿は見えないし、声も聞こえないらしいとわかった。
だがそれでも、この状況を理解できるわけではなくて(むしろ誰にも尋ねられないから困る)──……ただ、微笑んで嬉しそうに話をしてくれる子供を見て、守りやすくなったから、いいかと思う。
どうせ自分が何であれ、この子の側を離れるつもりはないのだし。
3.ああ、どうかこの子に祝福を
私は相変わらず無力だ。
以前子供を助けた力は、いつでも使えるわけではないらしい。それは直ぐに気がついていたからいい。
でも、使いたいときに使えなくて──守れないのは、困る。
少々憂うつな気持ちで、子供へと目をやった。相変わらず子供は床に入ったままぼんやりと宙を見つめている。
無理もない。あんなことがあった後だ。
無理もないけれど……その傍らに置かれている盆を見て、苦笑する。そっと子供の側に膝を着いた。
『せめて、食事を取ってください』
できるだけ柔らかく、暖かく呟く。子供はぼんやりとした目を私に向けてから、次に盆を見た。
手を伸ばし、そろそろと食事を口に運んでいく。だが直ぐに手を止めてしまって、膳を戻した。
先日──……あんなことがあってしまってから、子供は言葉を発しない。笑わないし、泣きもしない。
私がついていなければもう死んでしまっていたかもしれない。私以外の誰かの言葉では、食事を始めないのだ。
それに、私以外にこの子を守るものはいない。
けれど──私は無力だ。この子の傷を埋めることもできない。
側にいてやることしかできない。
ああ、どうか。
誰かこの子を救ってくれ。
4.貴方の笑顔があれば、何も要らない
子供の笑顔を取り戻すのに、私は何もしていなかった。
素晴らしきは母の愛、と思わずにはいられない。いや、敵うとは最初から思っていなかったけれど。
少し離れた場所で、母親と子供が話をしている。
私はその声を聞きながら、辺りを警戒し……ときどき空を見上げる。今日も天気は晴天で、眩いほどに輝いていた。
「うーん、でもね……」
母の言う言葉の意味を理解できないようで、子供はよく困った顔をしている。
けれど、何となく私にはわかる気がした。それを言ってしまっては、子供が本当の意味で知ることができないだろう、とも思うで言うつもりもなかったが。
長く長く、同じ話を繰り返して、別れ際に、親子は微笑みあう。
色の変わる空を見ながら、私と共に帰路に着く。母親がこちらに会釈しているのが見えた。
子供が笑顔で手を振っている。
せめて、この笑顔は守りたい。そう思った。
5.けして離れないことを貴方に誓おう
『契約を結びましょう』
「え? なんで?」
目を瞬かせて、子供は言った。
魔術を学び知識を得、自ら地に足をつけて、子供は少年へとなっていった。
私にできたことといえば側にいたことと、少年に害をなすものを排除したぐらいだ。
そして、小さかった子供は、今日、成人の儀を済ませた。
魔術の勉強をする子供の隣にいた私は、ある程度の知識を共有している。だから、今日、こういおうと思っていた。
『私を式にしてください』
昔。この子がまだ赤ん坊だったころ。母と父と赤子の側に私が近づいたことから全てが始まった。
形を得て、やれることが増えて……やりたいことができた。
私は未だに式ではない。こんなにやれることが増えても、まだ影でしかない。式になれば、もっと子供を守ることが出来るはずだ。
「うーん、でも……友達なのに?」
困った顔をした子供に、私は微笑んだ。
『友達だからこそ、貴方を守らせてください。若謳』
「う……ん。だけど、えっと、名前覚えてなかったと思うんだけど」
子供──若謳はまだ渋る様子を見せる。
名前がなければ契約はできない、と本に書いてあった。式の前の存在である影は名を持っており、その名によって契約を交わすのだと。
確かに、私は名前を覚えていない。そのため、若謳は私のことを名前で呼んだことはなかった。
『覚えていないのなら、それだけの名前だったということです。それに、名前で呼ぶことを許された時点で、その影は式なのですから、名前なんて契約後にしか呼べないものですよ』
微笑んで畳み掛けると、若謳が口をつぐむ。
『契約を結んでください。私は、貴方の式になりたい』
「……わかった。契約を結ぼう」
真摯な態度で言葉を繋ぐ。ようやく、若謳は頷いた。真新しい符を一枚取り出して、魔力を乗せる。
「我が名において問う。汝の名は何ぞ」
私は、嬉々として答えた。
──未空。