無力さを噛みしめるときほど、叫びたくなるときはない。
クリスは素早く呪文を紡ぎながら、背後の姉を庇う。紡ぎ終われば、正面へと向けた手が光を放った。近づきつつあった影を退ける。
だが間髪いれずに次の影が迫り、クリスもまた、次の呪文へととりかかった。
表面上は冷静に、魔法を構築し害をなすものを撃つ。ふつふつと浮かぶ激情を、叫びを押し殺して。
苛立っていた。叫びたかった。責めたかった。
しかし、向けることのできる相手はいない。八つ当たりできるほど甘い敵ではなく、こうして彼が戦うはめになった原因である姉は昏倒したまま動かない。
クリス達の住む町・ハスララが魔物の襲撃を受けたのは空が茜色に染まり始めた頃だった。
深い黒い色──闇の色と言えばいいだろうか──をした魔物が、突然姿を現し、買い物をしていた一人の主婦を襲った。
悲鳴が響き、人々が逃げ惑う。すぐに情報は伝わった。だが家に逃げこめばその家ごと壊され、町民にできることは何もない。
少しの時間を置いて、ハスララの中央部にある神殿まで連絡が届いた、らしい。
らしいというのは、その時クリスはその場にいなかったからだ。仕事を終え、家へ帰ろうとしていたときに、異変に遭遇した。
魔物と相対することになったとき、彼は迷わなかった。声をあげ、怯えて立ちすくんでいた町民達を神殿へ向かわせる。逃げ切れず、怪我を負った住民に治療を施し、なおも追撃しようとする魔物に向けて魔法を放った。
光が溢れ、魔物を貫く。動きが素早くない魔物で助かった。速ければ、クリスには当てられなかっただろう。
「死にてぇのかアホ! さっさと神殿へいけ!」
叱咤し、腕を掴み立ち上がらせて背を押した。逃げる住民とは反対方向に駆け抜ける。
金属の音、土煙、風を切る翼。戦闘が始まっている。神殿から騎士が出たのだろうと思う。
ハスララでは神殿に所属する騎士達が守りを担っている。腑抜けでどうしようもない若造も多いが、住民を守る意思は強いはずだ。
「クリス殿!」
住民の治療をしていると、騎士達が追いついてきた。白銀の鎧が光る。
まだ動けそうにない住民をあごで示す。
「連れてけ」
「ハッ」
騎士の一人が支えて、もう一人が付き添い神殿に戻っていく。騎士に抱えられた女性は、クリスへと頭を下げて去っていった。
息を吐き、空を見上げる。大分暗くなってきていた。日が落ちてしまえば、不利になるだろう。急がなければならない。
「クリス殿も、神殿へ」
「あめぇんだよ」
だから、声を掛けてきた騎士をひと睨みした。視線を受けて、騎士が背筋を伸ばす。
「てめぇらだけで、どれだけ助けられると思ってる?」
「し、しかし」
「無駄話してんのも惜しい。さっさといけ!」
一声上げれば、ぐ、と歯噛みをして、騎士達が一歩下がり、一礼した。苦い表情を浮かべつつ、「失礼します」と言い、駆けてゆく。
それを見送り、クリスもまたその場から走り出した。
町民を神殿へと送り出し、治療をし、夕闇の町を廻る。と、町外れで足を止めた。素早く壁に寄り、物陰から彼女を見る。
一見すれば、人間のようだった。黒い髪を高い位置で縛り、赤と黒のスカートを着ている、少女。
しかし、人間ではありえなかった。ヒトですらないだろう。彼女は魔物の合間を悠然と歩いていたのだから。
「あれは……」
小さく言葉を転がし、目を細める。
クリスの視線の先で、少女は闇の色をしたワイバーンをひとなでして、悪意の笑みを浮かべた。ワイバーンが飛び立ち、少女は丘のほうへと歩いていく。
迷う。この先、丘までは身を隠すような場所はない。魔法はまだ使えるが、全てを倒しきるのは難しいだろう。
「クリス!」
その迷いを察知したかのように、名を呼ばれた。素早くそちらへと目をやり、人差し指を立てて口へ近づける。
その動作に、駆け寄ろうとしていた女性──クリスの姉であるコンスタンスが歩調を緩めた。金属鎧であるものの、精一杯足音を殺してクリスの元までやってくる。
「何か見つけた?」
問いかけてくる姉に、一瞬逡巡して、だが結局は、少女のことを伝えた。そして、丘を示す。
「倒しに行くぞ」
姉は黙ったまま頷いた。そうして、二人で丘を登り始める。
丘の頂上で、太陽の光の最後のひと欠片が少女の姿を照らした。辺りに魔物がはべっている。くるくると、短剣を回して、彼女はハスララを見ていた。くすくすと、笑みを浮かべて。
だがその笑みも、クリス達に気づけば消える。
「まぁた、邪魔が入ったのぉー?」
甘ったるく、棘の混ざった声。苛立ちを隠す様子はない。クリスは少女を睨んだ。
「っは。邪魔するに決まっ──」
「それは」
クリスの声を掻き消すように、コンスタンスの言葉が落ちる。この場に似つかわしくない呆然とした声に、クリスは険しい顔で姉を見、少女もまた訝しげな様子でコンスタンスへ目をやった。
コンスタンスは少女を見ていた。しかしそれは少女の視線とはぶつからず、正しく言うならば少女の持つ短剣を見ていたのだ。
そのときクリスは、姉の表情が歪み、苛烈な感情がそこに浮かぶのを目の当たりにした。
次の瞬間には、コンスタンスは少女と間合いを詰めていた。短剣を握る細い手首を乱雑に握り、顔を寄せる。
「その短剣は何ですか!? どこでそれを──」
「ッ何」
「どうして、どうしてあの人と同じ形の物を持ってるんですか、同じ形の物は無いはずなのに!」
「うっさい、放せ!」
「答えなさい!」
「っ。姉貴!!」
僅かに遅れて、クリスがもみ合う二人の元へと駆け出し──黒い稲妻が一瞬、はじけた。姉が一度びくりと痙攣し、力なく倒れる。
「うっざあああああい。うっざいうっざいうっざい! 何よ何よ、皆してこの短剣がなんだって? わけわかんないこと言うんじゃないのぉ!!」
少女は飛び上がり、コンスタンスから距離を取った。そして手を向け闇の刃を向け、だが入れ違いにクリスが駆け寄ってそれを魔法で防ぐ。
「! 防ぐなんて、なまいきー!」
「っは、てめぇの実力がねぇんだろ!」
叫び返した。そして目線は少女へと向けたまま、倒れたまま動かない姉へ魔法をこめる。しかし、魔法は目立つ効力を発する様子がなく、霧散した。
思わず息を止めて姉を見る。嫌な汗が頬を伝っていく。心臓の鼓動が早い。頭の中が白く染まり……それでも自然に身体は動いた。手を握り、脈を確認する。
脈も、息も弱いが確かにあった。
「キャハハハハハハ♪」
響いた笑い声に、じろりと少女を見る。少女は先ほどの苛立つ様子とは一変、面白そうに笑っていた。
「よかったねぇー、生きてて。でも、その内死ぬよぉ?」
「てめぇ……何しやがった?」
「何って呪いだけどぉ? ゆっくり、ゆっくり死んでいくのぉ。苦しいんだよぉー」
きゃらきゃらと、甲高い声で笑う。クリスはギリと歯噛みをして、それと同時に脳裏で素早く呪文を構築、
「ルミナリー!」
言葉と共に発動する。だが少女はひらりと避けた。
「きゃー、あっぶなーい。あたしに攻撃するなんてぇー、なまいきー」
くすくすと面白そうに笑い……それも直ぐに冷ややかな表情へと変わる。倒れたままのコンスタンスを見る。
「もう、遊びはお終い」
その言葉を合図にしたように、少し遠巻きに見ていた魔物達が、少女とクリス達の前に割り込んだ。否、クリスとコンスタンスを囲んでいる。
クリスはぐるりと取り囲む魔物に視線を向けて、じりじりとコンスタンスを背後に守るように移動した。
「男のほうは、食っちゃってぇ」
魔物達にそう言って、少女はくるりと背を向けた。魔物が少女の姿を隠す。
ついに最後の日の光も消えた。
闇の中、青年は倒れた姉を守るべく、魔法を紡ぐ。
苛立っていた。叫びたかった。責めたかった。
全部を忘れて、町民のことも忘れて──おそらくは、守るべき神子のことも忘れて、少女掴みかかった姉。神子の騎士たる責任と、信念をあの瞬間、意識していなかったのが明らかで。
短剣を見た。何に姉が反応し、何を言っていたのかもわかった。わかってしまった。
だが、クリス自身はほとんど忘れていたのだ。短剣を見ても、そこまで反応する理由が分からない。
それを覚えていた、姉は──……。
やるせなかった。何も出来なかったことが悔しい。わかっていたら止めたのにと。
けれど、今それを思っても手遅れで、次がない予感すらしていた。
姉は目を覚まさない。魔物の数は減らない。
「ルミナリー…ッ。……ざけんな……」
光を生み出し、魔物を退ける。限界は近い。言葉が零れた。
いつまでも覚えて、死にかけている姉も。
そのことに気づかずに止められなかった自分も。
責めずには、いられない。問いかけずにはいられない。
──どうして。
死が、近い。