『若様』
染み渡るような声が聞こえる。耳に届くものではない、直接頭に届くものだ。
『……若様』
名を繰り返し呼ばれ、若謳は気力を振り絞って手をついた。畳に伏していた状態から、何とか起き上がる。そうして息をして、意識を飛ばす前より空気が冷えていることに気がついた。
肺が冷える。
「……寝ていたのか」
『はい、ぐっすりと』
軽く辺りを見回せば、自室であることはわかる。ここまでたどり着いたところで眠ってしまったらしい。
若謳は僅かに苦笑を浮かべ、気を抜けば再び落ちそうになる瞼を開き続ける。頭は既に眠る気しかない、と主張するかのように明確な思考を打ち出してこない。
体の重さを感じる。
『若様、ここで寝てはお体に触ります』
「うん……」
わかっている。けれど、漬物石が上に乗っているかのような重さの体を、これ以上持ち上げることは容易ではない。瞼を開けているのも億劫で、若謳はまた沈み込みそうになる。
頭上で苦笑を浮かべる気配を感じた。腕がつかまれ、緩やかに持ち上げられる。
『若様。お布団は用意してありますから、そちらで寝てください』
式である未空が、わざわざ実体化して身体を支えたのだと鈍い頭で気づいた。落ちていく意識をどうにかつなぎとめる。式であっても、触れた箇所がじんわりと暖かくなった。よほど冷えているのだろう。確かにこのままここで寝ていては風邪を引くところだった。
若謳は未空に支えられながら、布団の元までたどり着く。ゆっくりと横たえられて、掛け布団をかけられた。
「……ふとん」
『先ほど引かせていただきました。このままお休みください』
尋ねるように単語を口にすれば、打つような答えが返ってくる。
「すまな……」
『私は若様の式です。当然のことをしたまで。……それに、これきりですよ』
うん、と寝入る直前に小さく頷いた。そして誘われるままに眠りに落ちる。
◇ ◇ ◇
──長老様、私は外へ修行に行こうと思います。
──お前が必要だと思ったのであれば構わんが、外では今までの通り式を仕えぬぞ。分っておるのだろうな?
──ええ、承知の上ですよ。
古く大きい楠と主の言葉を思い出す。
式の場として安定しているこの島から出れば、未空達の力は限られ、実体化することも難しくなる。
分った上で若謳は島の長に許可を求め、長い時間と根気をかけて他の者達の許可をもぎ取った。慌しく普段やっていることを、若謳がいなくとも大丈夫なようにと手配を済ませ、帰ってきたのが日没間近。
ある程度疲れてしまえば動けなくなって何処ででも眠ってしまう若謳のために、未空が布団を引いて手を引くのはいつものことだ。
未空は静かに眠っている若謳へと目を落とす。
普段は自らのことは自らで行い、必要があること以外の手助けを許さない主。しかしそれも、眠気だけには勝てずに未空の手を借りる。
そうして、深く眠るのだ。今、休息をしなければならないと言うかのように……。
『島を出るのは初めてですね』
若謳にとってはもちろん、未空にとってもそうだった。明確な意思を持ってから若謳の側を離れたことはなく、満足に力を振るえない状態に陥ったこともない。
不安はある。霊に対しての警戒心が甘い主にとって、自分が実体化できないことがどれほどの危険か。今まで以上に警戒をする必要はあるだろう。
だがそれでも、外への期待は主と同じように未空も感じていた。
『若様、どうか貴方に──』
最後まで言わずに呟いて、窓のほうを見る。まだ空は暗かった。
明日、空が白み始めるより早く、若謳はこの島を出る。