その瞬間、意識するよりも早く、反射的に足が止まっていた。
「何か、用?」
聞き覚えのある……だが氷のように冷たい声に、喉を鳴らして唾を飲む。彼女がこうした声音を出せることを、カイは今まで知らなかった。
彼女──アプリコットと初めて出会ったのは、用心棒として雇われたカジノだ。健康的な小麦色の肌に、光に当れば薄く輝く青灰色の髪。上品なドレスを身にまとった彼女に、まず客かと思い、次に同じく雇われているものなのだという説明に驚いた。
カイ自身は、そこの仕事を失態に追われるようにやめたが、そのときには既にアプリコットと気安く話す仲になっていた。そして、何度か傭兵の仕事を受けるときに出会い──協定を結ぶように仕事を共にするようになる。
しかし、彼女がどこに帰ってどこで眠っているのか、いまだにカイは知らず。
今日は軽い気持ちで、仕事の後にアプリコットの後を追っただけだった──……。
──それが、こんなことになるとは。
首の辺りに当る薄いものに、固まるしかない。
「仕事は終わってたと思うけど?」
アプリコットは容赦なく、短剣を持つ手に力をこめてくる。
ここは、貧困街(スラム)に続いている通りで、これからますます物騒になっていく箇所だ。
盗賊の技を持っていることは知っていたが、まさか貧困街にねぐらを持っているとは思っておらず、驚いていたところ、曲がり角で捕まった形になる。
「……答えて。それとも、いえないことなの?」
硬い声で、再びアプリコットは囁いた。その声に、何処となく痛みが混ざったように聞こえたのは、カイの気のせいか、望みの生んだ幻聴だったからかもしれない。
「俺、は、ただ」
それでも、カイは搾り出すように言葉を舌に乗せて差し出した。
「お前が、何処に住んでるんだろう、って好奇心で」
入れられていた僅かに力が弱まる。その期を逃さず、カイは思い切って短剣を握り締めた。手を下ろさせながら、背後の彼女を振り返る。
「考えなしだった……直接聞けばよかったな。わるい」
海の波に似た瞳を真っ直ぐに見つめて、謝罪する。見つめた瞳は戸惑いに揺れていたけれど、確かにカイの姿を映していた。
よく見ずに掴んだからか、短剣を握った手の平が痛い。刃の部分にも触れてしまっているのかもしれない──けれど、恐らく、今回の軽率な行動で彼女に与えたものはこんなものではないのだろうと思う。
『そういえば、アプリコットってどこに住んでるんだ?』
アプリコットを見送った後に、軽い口調で傭兵仲間から尋ねられた言葉に、カイは答えることができなかった。
『あれ。もしかしてカイも知らないのか? 付き合い長そうだし、知ってると思ってた』
不思議そうにした仲間達の声を聞き、思わずカイはアプリコットの後を追っていた。知らない、ということに気づいてしまえばそのままにできない、というばかりに。
そのまましばし見つめあい、アプリコットはようやく体の力を抜いた。苦い笑みを浮かべる。
「直接聞かれても、答えるかどうかわからないよ?」
「でも、こっそりついてくのは違うだろ。ずっと一緒に依頼受けたりしてきたわけだし」
「まぁ、着いてこようとしても巻くけどね。カイってば尾行下手すぎ」
「……うるせー。こういうのはお前の得意分野だろ」
ばっちりばれていたのか、とカイは手を放してあらぬ方向を見た。ぶっきらぼうに言われた言葉に、アプリコットが僅かに声を上げて笑う。
「──答えないなら、待つ。教えてくれるまで」
真剣な気持ちで放った言葉に、彼女の笑い声が消えた。その余韻がなくなって、どこか遠くの物音が聞こえてくるほど待っても、アプリコットの言葉は返ってこない。
何故自分の心臓の音が大きく聞こえてくるのか、カイにはわからなくて。アプリコットがここから去ってしまったのではないかと不安で。それでも、振り返ったりもう一度こちらから声を発するのは、怖かった。
「馬鹿だなぁ」
カイにとっては長い間のあとに、染みるような口調のセリフが振ってきた。
「ば……!?」
「そんなに待ってても、教えないまま別れるかもしれないよ」
思わず振り返ったカイの目の前で、言葉が続く。まったく仕方が無いんだから、とため息を交えたいつもの言葉が。
カジノの用心棒なのにお客さんを守って、馬鹿だなぁ。
腕は立つくせにあっさり騙されて、馬鹿だなぁ。
向いてないくせに尾行しようとするなんて、馬鹿だなぁ。
呆れたように、それでも親しげに、アプリコットはいつも、カイに言う。
「だいたい聞いたって今までと何か変わるわけでもないのに」
カイよりも彼女は色々と知っていて、世渡りも上手だ。適わないのがわかっているから、そして本当に馬鹿にしているわけではないと感じているから、カイは黙って──たまに言い返しながらも、アプリコットの忠告を聞く。彼女のほうが、正しいことをいっているから、だ。けれど、
「……──それでも」
ゆるゆるとアプリコットが顔を上げた。深い色を湛えた瞳から、カイは目を話せない。笑っているように見える口元も、本当には笑っていないのだと、わかる。
「それでも、知りたい。知ることができればいいと思うぞ、俺は」
(あ)
目の前で、波色の瞳から雫が零れた。アプリコットが、泣きそうな(もう泣いているか)笑顔になる。
「馬鹿だなぁ」
──カイは、裏表あるようなやつじゃない、って知ってたのに。
突然、目の前の色が変わった。
涙と共に吐かれた言葉に彼女の深い底知れぬ何かを感じ、今まで見たことのない表情に心が揺さぶられる。
だがそれが何かと考えている暇はなく、とにかく今、目の前で泣いている彼女へと、カイは手を伸ばした。泣き止んで欲しくて、己の記憶の通りに頭を撫でる。
カイはまだ、今まさに自らが恋に落ちたことを、知らない。