ヘッポ=コーマルの中央区の外れ。住宅街にまぎれて小さな看板が出ていることを知るものは少ない。
リンゴに似たマークに酒場の文字が描かれたそれは、扉の上方にさりげなく置かれている。そこから目線を下ろすと、OPEN、CLOSEが両面に書かれた札がドアノブに踊る。
そんなことにも気づかずに、大抵のヒトは扉にも目をくれずに通っていく。気づいたものも、CLOSEの文字を確認すれば足も止めなかった。
「あれ」
一人の少女が扉の前へ立つ。小麦色の肌に耳の長い少女はCLOSEの文字に一度首をかしげ、それからすぐに鍵を取り出した。慣れた手つきで鍵を回し、中へと入る。
中には小さな掲示板と、数人が座ることの出来るテーブル、それにカウンターしかない。小さなバーのようだ。カウンターにはヒトはおらず、静まり返っている。
少女は青灰色の髪をかきあげ、ため息をついた。
「マスターはまた出かけちゃったのか。報告どうしよ」
冒険者の酒場「黄金の果実」亭所属の少女──アプリコットは気軽な調子で呟く。
荒事やら何かの手伝いやら、何でも屋のように動く「冒険者」という職業がある。冒険者は大抵どこかの冒険者酒場に所属し、そこから依頼を受ける。
一見すると隠れた酒場でしかないここ「黄金の果実」亭もその一つだ。
ただしここの酒場の場合、マスターも現役冒険者で酒場にいないことがままある。元々両手で足りる数しか所属冒険者のいない小さな酒場だからこそ、まだ成り立っているのだろう。
その少人数の一人であるアプリコットはお得意様の依頼をこなして戻ってきたところだった。
「マスターが帰ってきたら言えばいっか」
やはり気軽に行って階段へと歩き出す。まだ成人したばかりにも見える彼女だが、これでもマスターとの付き合いは長い。流れる血は伊達ではない、といったところか。
階段を登り、2階へとあがる。廊下があり、扉が五つほど見えた。所属冒険者のための住居スペースだ。アプリコットも部屋を一つ借りて住んでいる。
自分の部屋へと向おうとして、だが物音に足を止めた。思わず音のしたほうを見る。
そこには扉があり、十字の模様が彫られた板に部屋の主の名前が書かれていた。心臓が跳ね上がる。
(……今日は、いるんだ)
そうと知るだけで胸が苦しくなって、頭がそのことだけで一杯になった。次に、どうしようかと考える。
(挨拶しようかな、ううん、でも突然尋ねても変って思われるかも……)
考えながら俯くと今の自分の姿が目に入った。依頼帰りのため、かなりラフな格好だ。使った短剣も腰に吊ったままで──アプリコットは依頼の内容を思い返した。一応シャワーは浴びてあるが、血の臭いがするかもしれない。
元々、ここの冒険者にならなければ会うことなどなかった相手で、血の臭いも似合わない。
(……やめよう)
考えていくとなんだか悲しくなって、アプリコットは部屋へと戻った。そのままベッドへもぐりこむ。
前にあったときのことを思い返しながら目を閉じる。言えない。会えない。自分では──……。
気づかないうちに眠っていたのだろう。アプリコットは扉を叩く音が聞こえて、意識を浮上させた。
「おい、かえってんだろ?」
乱暴な声に、乱暴なたたき方。誰であるかに気がついて、目を擦りながら布団を剥いだ。何かあまりよくない夢を見ていたような気がする。
「アプリ? おい、返事しろって」
だが続けて叩かれる音と声に夢の残滓も消え去って、ずかずかと扉に近づいた。乱暴に扉を開ける。
「何?」
不機嫌な低い声に、扉の前にいた白髪の青年は面食らったような顔になった。それから眉を潜め、アプリコットから目線を外す。
「あー…あー…その、寝てたのか。わるいな」
そんな台詞が青年の口から飛び出して、今度はアプリコットが驚いた。怪訝な表情で青年を見る。
「カイ……何かあった? 謝るなんて珍しいね」
「……いや、俺よりお前が…………」
「あたし?」
青年──カイは罰の悪そうな顔でアプリコットを見ていたが、やがてけろりと表情を変えた。
「何でもない。で、今平気か?」
最近、カイは言いよどんでやめることが増えた、とアプリコットは思う。
カイとの付き合いはそこそこ長く、黄金の知識亭に所属する前からつるんでいる。流れの傭兵のようなことをやっていたときも共にいて、行動原理やらなにやらも知っていると思っているのだが、どうにも最近わからない。
だがこうしてやめたときに追求したとして答えてくれることはないとははっきり分っていて、アプリコットはただ頷いた。
「ああ、うん。平気。何?」
「マスターが出かけてて、飯が食えないんだ」
真面目な顔で言ってくるカイに、思わずじと目になる。付き合いが長いゆえに、カイが何を主張しているかも知っており、またカイにやらせれば大変なことになることもわかっているが──……。
たっぷり30秒ほどにらみ合って、アプリコットはため息を吐いた。
「わかったよ。作ってあげる」
「ああ、ありがとな」
カイが満面の笑みを浮かべる。
「多く作ってくれ。皆も食うだろうし」
「わかってるよ」
やれやれ、とまたため息を吐きながら、野菜を刻む。1階の厨房で、手際よく料理を完成させていった。
カイもアプリコットの指示で多少は手伝っているが、味つけや細かい部分には手を出さない。カイはそういった辺りで、よく失敗することが多いためだ。
「あ、もうあとは仕上げだから、カイはテーブルの準備してきて」
「わかった」
アプリコットの指示に当たり前のように頷き、カイは皿やフォークを持って厨房を出て行く。アプリコットは料理の仕上げに集中した。
出来上がったシチューの味を確認し、頷く。料理を盛れば戻ってきたカイが運んでいった。無言で差し出された皿にシチューを盛り付け、カイに返す。
全部の料理を盛り付けて残った皿を持ち、アプリコットも厨房を出た。
そうして……目に飛び込んできた金髪に固まる。
「あ、申し訳ありません。私の分まで作っていただいて……」
彼はそんなアプリコットにも気づかない様子で、苦笑しながら声を掛けてきた。未だに固まっているアプリコットの代わりに、カイが口を開く。
「気にするなよ。ここの調理器具なら二人分作るほうが面倒だし」
「貴方が作ったような言い方しない!!」
カイの言葉に固まっていたことも忘れて反射的にツッコミを入れ、アプリコットはコホン、と咳払いをした。出来るだけ彼を見ないようにしつつ、適当な席に着く。その際カイを睨むのも忘れずに。
『言ってよ!』
『いいだろ別に』
目だけで軽く会話をかわし、カイは「いただきます」と誤魔化すように食事を始めてしまう。習うように彼も同じく「いただきます」と言い出せば、アプリコットはもうカイを責めるどころではなくなった。
(ど、どうしよう……)
脈が早い。動揺を隠すようにアプリコットも食事を始めたが、彼が気になってそれどころではなかった。まさかこんな形で自分の料理を食べられることになるとは。
思わずジッ、と彼を見てしまったのか、食事をしていた彼が気づいたようにアプリコットを見た。
(!)
彼は怪訝な顔になって、だが直ぐに微笑む。
「美味しいです。作ってくださり、ありがとうございます」
その笑顔は優しくて、なんだか溶けそうだ。泣いてしまいそうな気もしないでもない。けれど、心の中に灯りがともったような、そんな感じもある。
「あ……ううん、たいしたことじゃない……から」
自分に向けて、笑ってくれれば嬉しい。
少し赤くなりながら、アプリコットはそう思う。
いえなくても、これだけでいいのかもしれないと。
──結局、そのうち行動を起こすことになるのだが。